1.光が消えた日
「ナギ」
聞き慣れた声が耳に飛び込んできて、ぼんやりしていた思考が一気に引き戻される。
「ナギ、なにボーッとしてんの?」
俺――相澤ナギの双子の妹、相澤ナミが、洗濯物を片手に洗面所へ滑り込んでくる。
その少女は、まるで夜の静寂を編み込んだような艶やかな黒髪を持っていた。
腰まで届く長い髪は、毛先まで丁寧に手入れされ、一筋の乱れもなく背中へ流れ、時折のぞく光に深紫の艶を返す。
瞳は宝石のように澄んだ黒で、光を受けるたび、わずかに紫を返す。冷たさと温もり、理知と感情、そのすべてが絶妙に混ざり合っている。
しなやかな白い首筋と、飾り気のない服装の中にも品を感じさせる佇まい。
たぶん、初めてナミを目にした者は、一瞬、呼吸の仕方を忘れるだろう。
そんな彼女は、鏡の前で立ち尽くす俺に、同じ遺伝子を分け合ったと一目でわかる顔を、グイッと近づけてくる。
ナミの頭を軽く手で押し返し、口にたまった歯磨き粉を吐き出す。
今日の空模様とは正反対の、爽やかなミントの香りが鼻を突き抜けた。
「雨と雷がけっこうすごくってさ。もし警報出たら、今日休みなんだって!」
ナミは洗濯カゴにハンカチをぽいぽいと放り込みながら、嬉しそうに話しかけてくる。
「今日はテニス部の助っ人だったんだけどなぁ。雨じゃコート使えないし。あそこ、部活後に顧問がアイス奢ってくれるから楽しみだったけれど、無しなら無しでラッキーだよねぇ」
「バニラアイス好物だろ。良いな。入部すれば?」
面倒な流れになりそうな気配を察知し、さっさとリビングへ逃げる。
けれど当然ナミは追いかけてきて、隣にぴったり張りついて話を続けた。
「運動も好きだけど、論文読んでる方が好きかな!でも一番好きなのはナギだよ!」
無意識にため息が溢れた。
最近のナミは、こんな風に積極的に距離を詰めてくる。
無理もない。
俺達双子の兄妹は、普通の家庭というものをほとんど知らない。
俺達の家には、四人全員で写った家族写真がない。
科学者の両親は、出産も育児も、できる限り合理的に処理した。
体外受精。代理出産。ベビーシッター。家政婦。
家族というより、管理された生活環境に近かった。
これでは、愛着形成に問題が起きても仕方ない。
ナミが俺に依存するのも、必然だろう。
ただ――間違った道へ進まないよう、釘は刺しておく必要がある。
「HLA型の類似が近親忌避に関与する、そういう論文でも探すか」
「数多のスクリーニング検査を通り抜けて産まれてきた私たちだよ!一代くらいじゃ何も起きないどころか、むしろ優秀な遺伝子が――」
「遺伝的リスクは避けられない。それに、直系血族と三親等内の傍系血族の婚姻は禁止だ。法律を守れ」
「科学の話してるのに!」
「科学は、法を守った上で成り立つ。研究職を目指すなら、肝に銘じろ」
ナミはすぐに勝ち目がないと悟ったらしい。
無言で手を引かれ、リビング中央のソファに座らされる。そのまま、彼女は迷いなく俺の膝に頭を載せた。
夜の帳のような黒髪が俺の膝一面に広がり、両腕で俺の腰をぎゅっと抱きしめてきた。
「わかってるよぉ……でも、ずっと一緒にいたいんだもん」
まるでナミの心を映すかのように、雨音が窓を叩きつけている。
俺だって、ナミを世界で一番愛している。
だけど、まだ十四歳。
これから、もっと広い世界を知り、自立していく。
大切で愛しているからこそ、本当の愛は、時に刃のように痛い。
ナミの未来を守りたいから――正しさへ連れ戻したい。
愛とは、相手の自由を尊重すること。
同時に、相手の破滅を黙認しないこと。
ナミの背中をそっと撫でると、小さな嗚咽とともに腕の力が強くなった。
大丈夫。
俺達は、ずっと仲の良い“双子の兄妹”でいることができる。
自分にも言い聞かせるように、心の中で何度も唱えた。
ナミが落ち着いた頃、窓の外に目を向ける。
サイドテーブルに置いたスマホが、低く震える音を立てた。
確認するまでもなく、休校の連絡だろう。
空の切れ間から光の棘が地上を刺し、雷鳴が視界の奥まで震わせていた。
――突如。
不安定な感覚が皮膚をざわつかせた。
知識や経験では説明できない何かが、すぐそこまで迫っている気がする。
腹の奥で冷気が蠢くように、体温だけがじわりと奪われていく。
これは、ただの不安じゃない。
理屈の外側にある“異常”が、こちらへ近づいてくる。
見えないはずなのに、確かにそこにいる。
足音も、息遣いも、触れられそうなほど近くに。
気を紛らわせようと、ソファに沈みながら音声認識システムにテレビをつけるよう命じる。
だが、何度呼びかけても起動音すら返らない。
ナミを少し押しのけ、仕方なくサイドテーブルのリモコンを手に取り、電源を押す。
プッ、とテレビが点いた。
……が、画面いっぱいに、乱れたノイズだけが走っていた。
背中を嫌な汗がつたう。
必死にボタンを押しても、どれも反応しなかった。
腰に巻きついていたナミも異変に気づいたようで、顔を上げる。
その腕に、不安からか、さらに力がこもった。
ただの通信障害かもしれない。
たまたま落雷で家電が一斉に壊れただけかもしれない。
それでも、一度感じてしまった嫌な予感は拭えなかった。
「とりあえず通信できる端末を探そう。ナミ、お前はスマホを確認して。俺はパソコンを立ち上げられないか慎重に確認してくる」
ナミがこくんと頷き、俺達は一度だけ身体を離した。
その瞬間――。
ゴオオオオオオオオオオオオォォォォォォォオオン!!!!!!!!!!!!!!
胸をえぐるような爆音が、どこからともなく襲いかかってきた。
空気がねじれ、壁が震え、床を伝って体の中枢まで響く。
見えない恐怖が、確かにすぐそこに迫っていると本能が叫んでいた。
「おにいちゃん!」
触れれば零れ落ちそうな涙を目尻に溜めたナミが、悲鳴を上げながら俺に飛びついてくる。
俺も全力で抱きしめ返し、耳元で囁く。
「大丈夫だ。電子機器から離れて、落ち着こう」
ナミは小刻みに震えながら、こくこくと頷いた。
テーブルの上に放置していたスマホに視線を向ける。
今の音が落雷によるものなら、過電流が走って内部がショートしている可能性がある。
まず充電ケーブルが刺さっていないことを確認する。
次に、指先でそっと背面に触れ、温度と静電気の有無を確かめる。
異常がないと判断してから本体を手に取り、ソファへ腰を落とす。
ぴったりとくっついていたナミは、そのまま俺の股の間にすっぽり収まり、両腕で俺の首に抱きつきながら深呼吸を繰り返している。
少しずつ、二人とも落ち着きを取り戻した頃。
ナミは、俺の鎖骨に左頬を擦り寄せながら、小さく呟いた。
「……おにいちゃん、見た?」
そんな予感はしていた。
圏外のままのスマホをソファに軽く放り投げ、ナミのほうへ意識を戻す。
「いや、音しか聞こえなかった。……そんなに光ってたのか?」
「光ってたっていうか……落ちてきた、みたいな」
落ちてきた。
雷にしては妙な表現だった。
落雷による火災か、建物の倒壊か、飛行物の墜落か。
あるいは、人工衛星、隕石――。
脳裏に様々な最悪の可能性がよぎる。
「ナギのこと、お兄ちゃんって呼ぶの、嫌だったのに。咄嗟に出たの、悔しいなぁ」
ナミは、すっかり落ち着いたのか懲りずに話題を振ってくる。
だが今の最優先事項は避難の準備だ。
「近くで建物が崩れてるかもしれない。火事や有害物質の放出もあり得る。すぐに荷物をまとめよう。
墜落の場合、何が漏れてるか不明だ。気休めだがマスクもしておけ」
ナミの不満げな半目を軽く受け流し、身体を押しのけて、非常用リュックを取りに玄関へ向かう。
聡いナミは、むくれながらも着替えを取りに走っていった。
リビングで再合流したら、ナミを抱きしめよう。
ナミのために。
俺のために。
非常用リュックを背負い、リビングに足を踏み入れた、その瞬間。
そこに、ナミはいなかった。
光――ナミ――は、何の前触れもなく消えた。
闇だけが、静かに、確かにそこに残った。




