12.トリックスター
宙に、柔らかく。気づけば、もうそこに座っていた。
まるで重力という概念から切り離された特等席だ。
身体は、最初からそうしていたかのように馴染んでいた。
足を組み、背もたれのない空気に身体を預けていた。
機体は静止しているように見えた。だが外殻は、俺の思考に正確に追随していた。
理解しようとすることは、もう放棄した。今の俺は、言葉で解ける場所にいない。
一歩、俺が「行きたい」と念じると、空間が滑った。
二歩目で気づく。歩くのではない、意志で進む感覚だと。
ナミ。
もし、お前がこの座席にいたならば、何を想っただろうか。
この未知に震えたか?いや、お前ならきっと喜んだだろう。
答えはもうわからない。
だから俺は、その答えを求めて進む。
そして、“それ”が見えた。
――あの日、ナミを連れていった異形。
俺はもう叫ばない。
怒りを掴み取るように、拳を固めた。
爪が掌に食い込み、皮膚が裂けて血が滲んだ。それでも痛みは感じなかった。
身体がほんのわずかに前のめりになる。
その瞬間、機体は俺の衝動に応じて前方へと疾走した。
殴るという意志だけで、全身が光に包まれ、機体が唸りをあげる。
けれど届かない。
TARAK-Xの前に、第二群体が立ちはだかる。
あの群れが、俺と本命とのあいだを、汚れた波のように塞いでいた。
まるで、あれを守る盾のように。
意思を持って、俺の進行方向に密集してくる。
邪魔だ。
そのうちの一体が跳びかかってきた。
俺の意志だけが、機体の拳を走らせる。
音はない。
影が、裂けた。
内部から、黒に混ざった濃赤の液体が噴き出す。
血液だろうか。構造体の反応流なのか。
ただ、循環していることだけは分かる。
「なるほど。こいつらも循環系を持っているということか」
それを冷静に考えているつもりでも、内心は煮えたぎっていた。
なのに、まだ足りない。
次から次へと、無数の亡霊のように湧き出す第二群体。
鬱陶しい。
忌々しい。
なぜだ、なぜ辿り着けない。
あいつがそこにいるのに。
ナミを連れていった、あれが、そこにいるというのに。
なぜ、この穢れどもが、俺を阻む?
怒りが熱ではなく刃となって胸を刻んだ。
もう一度、拳を構える。
怒りが、凶器となって噴き上がる。
殺意という名の詩を、俺は黙読しながら、敵を見据えた。
その時だった。
〔コンニチハ〕
――……は?
思考が一拍止まった。
〔ナマエ!トリックスター!〕
何だ、この声は。
いや、この機体からか。
機体が喋っている。
この状況で、妙に明るく、人懐っこい。
言葉を介することに一瞬の逡巡を覚え、それでも声を発した。
「……会話ができるのか」
〔ソウダヨ。コンニチハ。ヨウコソ、トリックスターヘ!〕
その明朗さは、この空間にはあまりに不釣り合いだった。
リスクは承知している。
それでも、対話を打ち切ることはなかった。
「早速で悪いが、あのバケモノ共を全て殺す方法はあるか?」
〔ウン……コンナノハ?〕
直後。
右手に、鋭利な剣のようなものが浮かんだ。
それが剣だと思ったのは、ただの錯覚だった。
そう気づいた瞬間にはもう、俺の手の中で灼けていた。
刃が燃えている。だが熱くない。
皮膚を焼かず、骨を穿たず、それでも確かに俺の精神を焦がしてくる。
内側から脳を炙られているような感覚。
静かに、じわじわと、限界点を超えてくる。
刀身の内部で、赤と橙と金が流動している。
火ではない。血でもない。
あれは、終わりそのものの色だ。
剣が囁く。
言葉じゃない。音でもない。ただ、焼けついた空洞の奥から、俺の怒りだけを引きずり出す。
「奪え」と。
「裂け」と。
「喰らえ」と。
刃が閃いた瞬間、目の前の空間が溶けた。
斬ったのではない。
世界を否定したのだ。
もはや兵器ではない。
これは、俺の憎悪が、ついに形を持った。
焔だけが漆黒の世界を照らす。
――この刃だけが、俺の中の「ナミの死」と呼応していた。
この武器を中心に、世界を回す感覚。
それが俺の中心だった。思考ひとつで、視界は上下左右を自在に回転する。
俺を中心にして、三百六十度が戦場になる。
ナミ。
お前の仇は、今から全て、俺の手で終わらせる。




