8.九月三十日:まだ、生きている
気が付けば、俺は喉の奥で何かを吐き出していた。
どれだけ叫び続けたのか、俺自身にも分からなかった。ただ、闇の質が、いつの間にか変わっていた。
死ね、死ね――D……go――h……hel……死ね……F*di…va…te――veteッ……! И…ди……
どの言語を叫んでいるのか、もう分からない。
舌と脳だけが勝手に回り、感情だけが音を選んでいた。
声にならない叫びが、喉から破裂した。
理性は砕け、言葉はもはや言葉でなく、記号のように脳内で切り替わっていく。
ただ、次々と吐き出される汚辱と呪詛の塊だけが、まるで自動翻訳のように脳から直接喉へ流れていく。
意味などどうでもよかった。
感情だけが先にあって、それを一番鋭く刺せる言語が勝手に選ばれていた。
この状況で最適な憎しみを運ぶ言葉。
それが、脳のどこかが勝手に選んでいた。
回路が壊れていく音がした。
優秀さと狂気が同時に暴走する。
俺の中の誰かが、発狂の仕方すらロジカルに制御していた。
だが、もう止まらなかった。
言葉が剥がれ、咽び、血の味と一緒に噴き出していく。
自分がどのような人間だったのかすら、一瞬、見失いかけた。
でも、ナミの名前だけは、正確だった。
――ナミを返せ。
喉が裂けても、まだ足りない。
自分でも信じられないような下劣で、原始的な言葉の奔流。
誰にも見せたことのない。いや、誰にも見せたくないはずだった汚泥のような感情が、喉から、目から、耳から、皮膚から、溢れ出ていた。
涙ではなかった。あれは血だ。
脳髄が焼けていくような痛みに、視界がチカチカと白く染まる。
見られた気配がする。
……いや、“俺”を見ていた。
――まただ。
青い光。
あの夜と同じ色。けれど今回は、知らない相手じゃない。
名前もある。構造も知っている。対抗策すら練ってきた。
TARAK-X――敵の名を、俺達はもう付けている。
なのに。
それなのに、体が、また凍りついた。
夜を刺すような冷たさを湛えた、完璧な無音の青い輝き。
敵意も、怒りもない。ただ、そこに在る。
あの眼に見つめられるだけで、皮膚の下から体温が失われていく。
視線を逸らせば逃げられる。そう分かっているのに、逸らせない。
知っているのに、抗えない。
その中心には、確かに穴があった。
感情でも理性でもなく、もっと原始的な何かが吸い込まれていく感覚。
目を合わせた瞬間、自分という個体の輪郭が、少しずつ削り取られていくような錯覚。
知っているはずの恐怖。
二度目だというのに……いや、二度目だからこそ、より深く刻まれる。
“TARAK-X”。
あの異形の、滑膜に包まれた巨躯。
あの全身が、俺を殺すためだけに存在していた。
感情もない、規則すらない。
けれど確かに、俺に照準を合わせていた。
殺される。
脳の奥に、小さな声が浮かんだ。
ここで、俺は死ぬ。そう告げる冷静な演算子がいる。
だけど、叫びは止まらなかった。
「ナミを……ナミを返せえぇぇぇえええッ!!」
砕けた声が喉を焼き、吐いた熱に空気が裂けた。
そして、TARAK-Xの脚が、動く。
目にも留まらぬほどではない。ただ、圧倒的に重い。
一歩。それだけで、地面が鳴った。
次の瞬間、俺の視界が急激に傾いた。
崩れた隔壁の向こうから、誰かが、俺の腕を強く引いた。
佐々木だ。
彼女の肩は熱く、腕は震えていた。
陸上隊に所属しているのだから鍛え抜かれた体のはずなのに、俺の体は鉛のように重かったのだろう。
「ッ、重っ……でも、死ぬなよ、あんた!」
自嘲に似た声を吐きながら、彼女は俺を半ば抱えるように走る。
脚の踏み込みに合わせて、俺の視界が跳ねた。
背後で、何かが軋む音がした。
戦略的地上移動要塞、E-Suiteの外殻が、さらに裂ける音だ。
けれどもう振り返る余裕はなかった。振り返れば、喰われていた。
全身で、逃げていた。
どれくらい走っただろう。
外に出てからしばらく経つ。
夜気は冷たく、砕けたアスファルトに血と油がまだらに広がっている。
遠くで火の手が上がり、誰かの叫びが風に流れていく。
その場に、ようやく腰を落とした。
息ができない。呼吸ではなく、心拍だけが先に走っていく。
その隣で、佐々木が壁に拳を打ちつけた。
「……クソ……クソッ、何やってんだよ私……ッ」
息が乱れ、声も怒鳴るというより、震えていた。
それでも彼女は、俺を正面から見た。
茶色の髪が揺れ、汗に濡れた額から血が流れている。
「……成果は、あった」
言葉は少し潰れていた。でも、それでも真っ直ぐだった。
「……だから、あんたは生きて。次を考えろ。これは――そのためのものだ」
そう言って、震える指で差し出された端末。
俺は、両手でそれを受け取った。
起動音が一つ、耳の奥で鳴った。
薄暗い画面に、ファイル名が浮かぶ。
【ファイル名:AIZAWA_LOG_0929】
手が勝手に動いた。
画面をタップする。
何の飾り気もない、淡白な文字列。
――
提出先:AIZAWA_N / VELUCT共有回線(優先)
備考:可能であれば本人へ直接説明したい。理由は記載省略。
――
その文字列を読んだ瞬間、息が詰まった。
どうして、それだけで。
どうして、この短い文章だけでこんなにも、胸が、苦しくなる。
涙は、痛みのようだった。
喉が塞がり、口が動かなくなった。
肩が震えた。止めようとしても止まらなかった。
――俺が泣くなんて。
あの時でさえ泣かなかった。
ナミが、捕食された瞬間ですら、涙は流れなかった。
けれど今、目の奥にあるものは、明らかにそれだった。
ぼた、と何かが落ちる音がして、ようやく自覚した。
「……くそ……」
震える声が、誰のものか分からなかった。
俺は、生きている。
ただ、それだけだった。




