7.応答なし、感情なし、終わりなし
火はなかった。爆発も、煙もなかった。
ただ、静かだった。
熊谷外縁。二十三時四十三分。
停止の報告から、まだ数十秒しか経っていない。
TARAK-Xの一体が、完全に動作を停止したように見えた。
制御室の一角では、科学者たちが無言のまま計器を見つめ続けている。
誰も確証を持てず、わずかな波形の揺らぎを凝視することしかできない。
一方で、陸上隊員の一部は肩の力を抜き始めていた。
「終わったのかもしれない」と目を交わす者もいる。
破壊の残滓が地表を覆い、Phractureの干渉波形はようやく収束を迎えていた。
装置から漏れる青白い余光が、焦げた瓦礫と沈黙の街並みに反射している。
その場に立ち尽くした隊員のひとりが、誰にともなく、祈るように呟いた。
「……これで……すべてが、終わったんだろうか……」
けれど、返事は返らないままだった。
俺は無言のまま、制御端末の前に佇んでいる。指先にはまだ、あの波形の余熱が残っていた。
眼前にあるモニターには、すでに構造応答ゼロの記録が並んでいる。だがその光さえ、俺には届いていなかった。
TARAK-Xの影が、ひとつ。
10メートルの巨体は、まるで在ることそのものが目的であるかのように、ただ存在している。
一瞬、世界が制止したように感じた。
風の有無ではなく、温度と揺らぎが消えた感覚。
次の瞬間、警告音が走る。
制御棟の天井に取り付けられた広域センサーが、一斉に反応を示した。
警告――構造波、急速接近。
数値は跳ね上がり、波形はノイズ混じりに乱れる。
大地を這うような黒い影が、E-Suiteの四方から押し寄せていた。
TARAK-Xの第二群体。前回は存在しなかった、新しい存在たち。
規則も言語も存在しないかのような奇妙な波長で、その全身を震わせながら、E-Suiteを包囲し始めた。
静寂が、音を取り戻していく。
通信塔が折れた。
装甲が一瞬で砕けた。
電子機器の破壊によるショートで人が焼けた。
ただ、殺戮だけが進んだ。
逃げ惑う者の悲鳴が飛び交い、次の瞬間には肉が裂ける音だけを残して、声が途切れる。
返り血に染まった壁際で、仲間の名を叫んだ技師が、視界ごと吹き飛ばされた。
焼けた皮膚、焦げた装甲、溢れる死。
情報量が過多だ。処理が追いつかない。
足裏が一瞬だけ滑るが、なんとか姿勢を持ち直す。
Phractureは第二群体に応答しない。
何度呼びかけても、システムは沈黙を返すばかりだった。
俺はPhractureへの対応を諦め、床に崩れた技師の身体を越え、瓦礫の影へ身を伏せる。
仮の安全地帯から、脇に抱えていたタブレットを起動し、近くで倒れた兵士に這う、第二群体の構造波を観察する。
構造波は、血のぬくもりの残る皮膚表面をなぞるように、ゆっくりと波を走らせていた。
“熱”、なのか。
生死を問わず、体温に引き寄せられている可能性が高い。
第二群体はただひたすらに、人の群れた区域へ向けて突き進んでいる。
無秩序に見えて、極めて本能的な行動パターン。
少なくとも現時点では、構造波は熱を辿っているように見える。
ならば逆を行けばいい。
その動線の隙間を正確に読み取り、目前の死線をすり抜けるように走った。
焼け焦げたシャッターの向こうに、かすかに残された緊急誘導灯の光を見つける。
その混乱の最中、停止していたはずのTARAK-Xの輪郭が、ほんの僅かに揺れたように見えた。
だが、 俺はその違和感を振り切り、そのままE-Suiteの内部へと駆け出す。
瓦礫の隙間から滑り込んだ先は、かつて研究という言葉のもとに整然と整えられていた空間だった。
E-Suiteはモジュール式だ。
緊急時には区画ごとに分離され、可搬軌道を辿って後方へ退避する構造を持っていた。
俺はその最奥、研究ブロックの操作盤にたどり着く。震える指先でコードを入力し、防護シャッターを作動させた。
鋼の板が落ちる音が、遠くから続いていた爆音を断ち切る。
閉ざされた空間に、わずかな静けさが戻る。
わずかな息を整えたそのとき、手元の端末が低く鳴った。
生体反応。
ノイズ混じりの波形の奥に、ひとつのパターンが微かに浮かび上がっている。俺は見逃さなかった。
――亜美。
すぐに駆け出す。通路の先、赤く染まった床。非常灯のちらつく明滅の中、壁に背を預けて座り込む人影がひとつ、俺の目に映った。
足を止め、静かに近づく。
それは、血に濡れた白衣だった。白の下に滲む黒。
その中心、息を細く繋いでいるのは、五十嵐亜美。
返り血を浴びた姿のまま、小刻みに震える。防刃ベストは砕けたが致命傷はなかった。
傍らには、彼女を庇ったであろう機動隊員の亡骸が横たわっている。
「……ナギ……」
弱く笑んだ彼女の唇が、名を呼んだ。
「……無事……だったんだ、ね…… ……よかった、ほんとうに……私……隊の人が……私のこと……かばって……っ……ご、ごめん……ごめんなさい……っ……こわいの……ずっと、こわい……っ、頭の中が……止まらなくて……う、ひっ……」
泣き声にもならず、彼女はただ震えていた。
俺は無言で彼女の身体を支える。血の感触が手袋を通して伝わる。
温かく、そして脆い。
――俺はこの“道具”をまだ利用できる。
そう理解して、必要最低限の仕草で彼女に寄り添った。
声をかければ、疑われる。優しくすれば、すがりついてくる。だから、何も言わない。ただ、それだけでいい。
目の奥に張り詰めた静けさだけがあった。
それでも、その一瞬だけは、時間が止まっていた。
亜美が手を伸ばし、俺の頬に触れようとした。
その指先が触れるよりわずかに早く、世界の輪郭が、もう一度、軋んだ。
ふ、と。
背後で空気がざわめいた。
それは音ではなかった。膜のように湿った空間が撫でられ、温度が軋み、匂いが途切れ、現実がたわんだ。
まるで存在そのものが歪んだかのように、何かが、そこに出現していた。
次の瞬間。
E-Suiteの防護シャッターが破られた。
バリバリバリ……ン!
鋼の悲鳴が、低く湿った音を伴って響き渡る。
メタマテリアル装甲が、裂けた。濡れた紙を、爪でゆっくり引き裂くように。
内圧の反動で凹んだ装甲が、粘膜のような何かに貫かれ、赤黒い油膜を滲ませながら剥がれ落ちる。
そこから、“停止していたはずの、TARAK-X本体”は顔を覗かせた。
滑膜質の脚が装甲を押し広げ、無音のまま侵入する。
異様なまでに長く、まるで重さの概念を持たぬまま、空間へ滑り込んでくる。
「ナギ……うしろ」
声が終わるよりも先に、それは動いていた。
粘膜のような黒い舌が、静かに、けれど確実に伸びてくる。
光を吸い込むその表面は、空間に滲むようにして俺のすぐ傍まで這い寄っていた。
濡れた気配が肩口に触れた瞬間、亜美の身体がふわりと浮いた。
摘ままれた。
人間一人を、まるで重みのない紙片のように。
「……やだ……ナギ……!」
亜美が声を震わせた。視線はこちらを捉えたまま、舌に絡め取られ、ゆっくりと持ち上げられていく。指先が空を掴み、伸ばされる手が俺へ向けて何度ももがいた。
「ナギ……たすけ……っ……!」
その声は、空気の中で擦れて消えていった。叫びになりきらず、泣き声にもなれず、ただ彼女の喉だけが痛みを絞り出していた。
捕食者は、無言のまま顔を上げる。
頭部が、わずかに天を仰ぐように動き、顎が音もなく開いた。
裂けた口腔の奥は深淵のように静かで、亜美の身体は逆らうことなく、そこへと運ばれていく。
「ナ……っ、……な……! ……!」
俺の脳にもう亜美の声は届いていない。
俺は動かなかった。
あるいは、動けなかった。
彼女の手が、目の前を通り過ぎていく。何度も空を掴みながら、指先は黒の中へと沈んでいった。
ずる、と湿った音が最後に残り――
亜美の姿は、完全に飲まれた。
声も温もりも、何ひとつ、この世界に遺されることはなかった。
暗がりの中、ただ一つ。
TARAK-Xが、また「そこに在った」。
俺は目を見開き、そして……動かなかった。
腕には、彼女の重さの残滓がまだ宿っていた。けれど、それはもう誰のものでもない。
喉の奥で、誰にも届かぬような、かすかな声がこぼれた。
「……ナミ……」
思考が剥がれ落ちる。
意識が沈む。
視界が明滅し、耳鳴りだけが、遠い波のように身体の奥を打ち続けていた。
涙は出なかった。
喉が裂けるほどの叫びも、出なかった。
ただ。
俺は、立ち上がらなかった。
暗闇の中、非常灯が俺の顔を照らす。その顔に残る血痕が、乾ききらない痕跡として皮膚を縁取っていた。
そして、俺は“視た”。
真正面から、裸眼で。
TARAK-Xを。
そこにはもはや、感情はなかった。
悲しみも、怒りも、拒絶も。
ただ、ひとつ。
狂気だけが、沈黙の中にあった。
その直後、裂けるような絶叫が静寂を突き破った。
「ナアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアミィイイイイイイイイイイイイイイイッ!!!!」
喉を潰し、肺を焼き、魂の全てを吐き出すような、感情ですらなくなった何かが咆哮として噴き出した。
呼吸では足りない。空気すら足りない。崩れた世界の中で、ただ一人、声を裂く。




