七
「先生」
霜村はノートを木製のデスクに置いて、書棚に陳列している学術書をパラパラとめくっていた。
「何?」
視線は本に向いたままである。
霜村の視線はいつだって佐古下に向いたことがない。彼女はそう思った。
五年前、佐古下の人生は一人称になった。高校入学して間もなく出会った霜村は冷たいサイボーグみたいな人物だった。
二十代の教師というのも珍しく、スラッとした長身に併せて他を受け入れないようなオーラに黄色い声を上げる学生も多かった。また、若くして希代の民俗学准教授という経歴も黄色い声をより明るくしていたことだろう。
佐古下の視点はそれとはやや異なったと思う。今ではそれが元々はどのような形であったのか、覚えていない。
佐古下は霜村に好意を寄せていた。そのことだけは変わらない形だった。
この変わらない、という部分が再会した今も強調されたようで哀しい事実でもあったが。つまり一方方向である、ということだ。
霜村がとのような環境で教鞭を執っていたのか興味があった。佐古下は彼の准教授時代の大学へと進学した。
霜村の優秀な話はそこで度々見聞きしてきた。その場に彼がいないことだけが佐古下にとって気がかりであった。
佐古下は県内の高層マンションで八十科と二人暮らしであった。八十科とはこの五年ほどの付き合いである。彼は天見家に仕える従者のような人物である。いついかなる時も押し黙り忠実に家事や雑務をこなしている。彼には歳の離れた娘がいた。彼女もまた天見家に仕えている。
現代では稀に見る、これが執事というものかもしれない。
高校在学の頃、理事長の西岡美栄子と三人で食事をしたことがあった。
西岡美栄子、佐古下の伯母である。
美栄子は急にできた親族内の娘を可愛がった。余計なほどの世話好きなのである。
その食事も美栄子が理事長の特権と、伯母の特権を振りかざした結果のものだった。美栄子もその分霜村を気に入っていたのである。おそらくそれは人として、ということだ。
忘れもしない。その食事の際、美栄子は全員の食器が片付き言った。アフタードリンクにコーヒーやワインを飲んでいるときだった。
「霜村先生、この子のことをどう思いますか?生徒としてではありません。女性として、ですよ」
美栄子の柔らかく鋭く尖った言葉は、向いてもいない佐古下の方にもズブリと刺さった。美栄子も天見家の女として十分な資格と素養があった。
霜村は黙ったままワインを飲んでいた。時間にしてたっぷり五十三秒、彼はようやく口を開く。
「理事長、ご存知でしょう。僕にはもう人を愛せる容量は残っていないんです」
そう言って、グラスを傾けていた。
「先生はお好きな人、いますか?」
思考は瞬時に書斎の佐古下に戻ってきた。
「好きな人?」
「ええ。女性として好意を寄せている、という意味です」
「いないね。なぜ?」
霜村はその間もずっと書棚に陳列している本をめくっては戻す作業を繰り返している。




