十
霜村は深い溜息をついた。深呼吸にも似ていた。その一瞬で整理ができたのは彼の頭の回転の早さ故だろう。
「随分都合が良いですね」
霜村の勤める東晴学園の理事長は天見正元の妻、美希子の姉、西岡美栄子だった。
◆
東晴学園内では長野の神隠しの話題でもちきりだった。
休み時間中にも依田原の席に仲の良い林沙耶香がしきりに話を振ってきた。
「ねえ、どうしたんだろうね」
「どうしたって、何が?」
依田原は胃が痛かった。自分が招いたと思っている。
軽はずみだったと後悔の念も押し寄せていた。決行したのはおそらく彼自身の意志であるにも関わらず。
「霜村先生。何しに長野に行ったんだろう」
話を知らない林はわざとらしく考えた振りのような面持ちで校庭を見ていた。依田原は林の話も様子もほとんど見ていなかった。
◆
佐古下はその晩、空いている客室を一つ充てがわれ、そこのベッドで横になっていた。
客室の扉は内鍵を縦から横に回して掛けるタイプであり、廊下側には鍵穴がない、非常にシンプルな造りのものだった。佐古下は夜二十二時頃には自室に篭っていた。サロンでは堂山と齋藤が飲み交わしていた。
窓の外には宵闇の中、空を支配せんと月が鎮座していた。明りが窓から室内に漏れて延びている。室内の木目が冷たく柔らかく光っていた。
雲は疎らだった。空気も冷た過ぎない。心地良い夜半であった。佐古下は冷静だった。何度も経験があったからである。考えているのは脱出方法、何かが起こるという予感をしながら。
横になっている角度からは樹海は覗けなかった。夜の世界の良いところしか見えなかった。上体を起こせば闇夜に伏せ広がる深淵を内包した樹海が見えるだろう。
スマホへと目線を移した。
時刻は一時五分。バッテリーは五十二%だった。この館にはコンセントという現代文明においてあって然るべきものがなかった。圏外で外界ともコンタクトの取れないスマホは、ただの時計兼多機能電子メモ帳へと降格していた。すぐに画面を消灯させた。
佐古下は布団を被った。
◆
翌朝目覚めると、今度は強い陽射しが室内に差し込み佐古下を覚醒させた。落ち着いて睡眠ができたと思った。スマホを見て七時三十分であると確認した。二〇二二年六月四日、土曜日の朝である。
上体を起こして窓の外を見た。樹海は目線を越える高さで聳えており、視界のほとんどを奪った。辺りを見渡す。という行為が無意味である。
佐古下は喉が渇いていると感じ、洗面室で顔を洗い、一通り身なりを整えてから居室の鍵を空けて廊下に出た。
とほとんど同時に二部屋挟んだ扉が開いた。
外開きで右手で左から右に押し開ける方向なので、すぐには誰だかが分からない。佐古下の目線からは扉しか見えないからだ。
扉が閉まって姿を現したのは河野だった。黒のインナーシャツにスラックス姿である。
河野も佐古下の方へと振り返った。
「おはようございます」




