八
「慣れっこなんです」
「慣れっこ?」
「蒼野さんはいつからここに?」
「えっと、二週間ぐらいかな?」
「ここから出ようとはしましたか?」
「うん、したけどでも駄目ですね。堂山さんと塩原さんと一緒に山に入って登山道目指したんだけど、元の道が崖っぽくなってて登れないし、諦めてここにいるの」
蒼野の視線は手に持ったカップに向いていた。
「蒼野さん、タメ語で統一していただいて結構ですよ」
敬語とタメ語が入り混じった言葉に佐古下は僅かな不快感、いや歪みのようなものを感じるのだ。
「あら、ごめんなさい。気を遣わせたかな?」
佐古下は首を二、三回横に振った。
「話を戻しますと、ここからは出られない。試そうとしたけど駄目だった。この場にいる人は全員そういう認識なんでしょうか?」
「そうね。そうだと思う」
「ここは現実だと思いますか?」
「え?」
「現実世界で、出たいのに出られない。行きたいのに行けない。そんな場所が物理的に存在するのでしょうか」
世界、という単語を用いることで殊更佐古下の主張する霊界を強調する布石を打った。
「佐古下さんが今言ったような現実には存在しないと思う。絵本作家でも流石にその区切りはつくよ」
蒼野は自虐的な笑みを浮かべた。
「でもここが現実なのか、夢なのか、ときどき考えることはあるかな。……フィクションの話で、死んだあとの世界は天国とか地獄じゃなくて、現実世界に似通った世界だったりする。死ぬたびに違う現実世界にジャンプするの。パラレルワールドとでも言うのかな?でもここが死後の世界だとしたら随分陰気で気が滅入っちゃう」
蒼野は小さく溜息をついてからコーヒーカップを傾けた。
佐古下は喉まで出かけた霊界の話をそっと抽斗に締まった。
◆
それは偶然にも依田原から、佐古下からの連絡が途絶えた。という話を受けた夜のことだった。
東晴の教員駐車場から車を滑り出し自宅のマンションに着いたとき、エントランス前に立つ男がいた。
二十時を少し回った頃だった。
その男は屹然と棒のように立ち、まるでその姿勢ですら使命であるかのように膝を折り曲げることなく直立していた。
知った顔だった。
男はこちらに気がついて、身体ごとそのまま正面に向け頭を下げた。黒髪を七三気味に後ろに撫でつけ、黒服を纏った五十路過ぎの男は八十科だったと記憶している。
霜村も相手に倣って軽く会釈をした。
「霜村様。お久しぶりでございます」
「八十科さん、ですね?」
「はい。このような夜分に申し訳ありません」
八十科は再び頭を下げた。先ほどと寸分違わない角度だった。
「お会いするアポイントメントすら取らずに参りましたのには理由がございます。失礼とは知りつつ恐縮ではあるのですが、少々お時間を頂けないでしょうか?」
現代においてここまでの丁寧口調で話す人間をほとんど知らない。霜村の印象に残る人物だった。




