第43話「レウクトラの戦い。開戦」
テーバイが中心となるボイオティア同盟軍と、スパルタが中心となるペロポネソス同盟軍が、テーバイから程なく離れた平原で睨み合っていた。
平原の名前は「レウクトラ」と言い、この日よりその名前を歴史に残すことになる。もちろん、この場にいる兵士達はそんな事は知る由も無い。彼らにとっては目の前の戦いが全てだ。何しろ命が懸かっているのだ。余計な事を考える余裕などない。これは、シシュポスの様な一兵卒から、ペロピダスの様な将軍まで皆同じである。
いや、一人だけ今後の事を考えている男がいた。テーバイ軍の総司令官にして、ボイオティア同盟軍の総司令官にも任じられたエパミノンダス将軍である。彼は、この戦いで画期的な戦術を行おうとしている。そもそも「画期的な戦術」という概念自体が、この時代の戦士達の頭には無い。戦術という概念が発達しておらず、戦争の決着はより兵士が多く、練度が高い方が勝利すると言う単純明快なものだ。もちろん、エパミノンダスよりも過去の時代の将軍には類い稀なる戦術眼を持ち、本来劣勢な戦いをひっくり返した者も幾人かはいる。しかし、それは個人の才覚によるものだ。
今日、エパミノンダスがやろうとしている戦いは、彼がこれまで学んできた哲学や数学を元にしたものだ。つまり、エパミノンダス個人の頭脳に頼っている面はあるものの、基本的には誰もが学べる学問としての戦術を考案したのだ。
つまり、エパミノンダスと同様に学問的に戦いを捉える事で、誰もがエパミノンダスと同様に軍隊を指揮する事が出来るはずなのだ。
その様な事を考えていたエパミノンダスは、その考えが気宇壮大に過ぎると思い苦笑した。視野を広く持つのは良いことだが、今は決戦の指揮に集中すべきだ。ここで勝たねば、「エパミノンダスの戦術」が後世に伝わる事もないだろう。
だが、自分の戦い方を学び、受け継いでくれる者が出現する事には、期待せざるを得ない。そうでなければ、エパミノンダスが生きている間はテーバイは隆盛を極めるかもしれないが、死んだ後にどうなる事か分かったものではないのだ。
その点、エパミノンダスは期待している若者がいる。神聖隊の兵卒であるシシュポスだ。
エパミノンダスは自分の戦いに関する学問的な考えについて、軍の側近たちに教授しており、優秀な彼らはある程度は理解してくれている。だが、シシュポスはエパミノンダスと同様の学問的資質を備えている。側近たちに教えた様に、嚙み砕いて教えた訳でもないのに、エパミノンダスが示唆した漠然とした教えから、数学的な考え方によって見事正解を見出して来た。彼がテーバイ軍の中心に昇っていくのなら、しばらくはテーバイの地位は安泰だと言えよう。
懸念事項もある。シシュポスは未だに一兵卒である。しかもテーバイ最強の神聖隊の一員だ。最強の部隊は、最も危険な戦いに送り込まれる。当然エパミノンダスはシシュポスも含めた神聖隊を、危険に晒すような運用を計画している。そうしなければ勝てないからだ。だが、そうなるとシシュポスの死の危険性は高まってしまうのである。シシュポスは戦士としても優れた資質を持っているが、世界最強と謳われるスパルタ軍と正面から戦って、生き延びる事が出来る保証はどこにもない。
更に懸念事項もある。シシュポスのパートナーであるデミトリアスが、つい先日スパルタ軍と交戦して瀕死の重傷を負ったのだ。未だに彼は目を覚ましていない。
神聖隊の兵士達は、全員が愛し合う男達である。恋人同士しか神聖隊に入る事が出来ない。
シシュポスとデミトリアスはその例外であり、一応表面上はパートナー関係にあるのだが、それは偽装カップルだとの報告を受けている。だが、エパミノンダスの見た所、シシュポスはデミトリアスに惹かれていた。シシュポスは同性愛の傾向は無いと聞いていたが、そんなものは後からいくらでも変わるものである。そして、デミトリアスは元々ペロピダスに惹かれていたはずだったが、エパミノンダスの見た所シシュポスの事が気になり始めていた様だ。
お互いに愛し合い始めていたのに、それは今引き裂かれている状態である。シシュポスの心中は穏やかではないだろう。シシュポスは父親を殺された復讐のため、神聖隊に志願して来たのだが、今は復讐の理由が増えている。今日のスパルタ軍との戦いは、その感情によって苛烈なものになる事が予想できる。
怒りの感情で戦う事は、爆発的な攻撃力を発揮する。それは戦争において敵を打ち破るきっかけとなる。しかし、我が身を顧みる事が無くなってしまうため、危険に晒される可能性も高くなるのだ。
エパミノンダスは、シシュポスがこの戦いで生き延びてくれることを祈った。
個人的な考えはここまでにして、エパミノンダスは両軍の状態に目を戻した。すでに両軍の布陣は終わっている。後は互いに接近し、槍を交えるだけだ。
エパミノンダスは味方の戦闘隊形が、自分の考えた通りのものになっている事を確認し、内心ほくそ笑んだ。相対するスパルタ軍の布陣はいつもと変わらない、旧態依然としたものだ。彼の予想通りなら、完全なる勝利を得る事が出来るだろう。そして、スパルタ軍の首脳部も、テーバイの布陣のを目視し、それが常識からは外れた、異常なものである事に気が付いているはずだ。だが、これが何を意味しているのか、理解してはいないだろう。
彼らが理解する時は、自らが敗北に追い込まれた瞬間である。
そろそろ頃合いだと判断したエパミノンダスは、伝令兵に前進の命令を伝えて来るように指示した。




