第30話「ペロピダスの帰還」
「さて君たち、先ほどの私のボクシングの試合から何を学び取り、どの様に戦争に活かせば良いと思うかね?」
神聖隊の兵士達は、エパミノンダスを取り囲んで座り、真剣に聞き入っている。
当然である。エパミノンダスはテーバイ軍の総司令官になる男であり、それは即ち神聖隊も指揮することになる。そのエパミノンダスの言葉を一言一句漏らすまいと聞き入るのは、兵士として当然の事だ。
また、別の理由もある。エパミノンダスはその明晰なる頭脳から生み出される知略で知られる名将であったが、それだけでなく戦士として優れている所も魅せ付けた。
兵士……というよりも男という生き物は単純なものである。より強いものに憧れる傾向があり、それは殆ど本能的なものだ。特に神聖隊の兵士達は、テーバイ軍の切り札とされる精鋭部隊と言われている。その彼らにとって強さとは信仰に近いものがあり、戦士としても優れているエパミノンダスは、文句なしに尊敬の対象となるのだ。
加えて言えば、神聖隊の兵士達は皆一対の恋人達であるが、彼らが真剣に訓練に取り組む理由は、その辺りにあるのかもしれない。自分の恋人に対して強さを魅せ付け、愛情が離れる事が無いようにしているのだ。
「エパミノンダス将軍は左右のパンチの連携で勝利しましたから、別動隊を上手く連携させると言う事ですか?」
兵士の一人が間髪入れずに意見を述べた。即断即決は優れた戦士の証拠である。いかに正確な判断であっても遅れては意味がない。先程、シシュポスとデミトリアスがレスリングの試合をした後にも、同じ様に質問をした時は難しい質問に答える者はいなかった。
その時とは兵士が打って変わって即座に答えるようになったのは、エパミノンダスが彼らの心を掴んだ証拠である。尊敬しているエパミノンダスに失望されたくないという思いが生まれたのだ。
「六十点といったところかな。その連携をするために、どの様な要素があれば良いのかを考えてよう。ああ、付け加えておくと、私も別動隊については考えていて、それは君たち神聖隊しか任せられる者達はいないと思っている」
「あの、小刻みなパンチの連打ではないですか? いくら力の差があったとしても、数を重ねる事で動きを封じられました。ならば、スパルタ軍の様な強い力を持つ軍隊であろうと、攻撃を加え続ければ少なくとも負ける事は無いのではないでしょうか。ただ、実際にどうすれば戦争で実現できるのは分かりませんが」
エパミノンダスの相手をして敗北したクレイトスが次に答えた。彼は攻撃を受け続けてかなり顔が腫れあがっていたが、恋人のテセウスに治療をされて血は止まっている。
「よーし。良いぞ良いぞ。これで八十点だ。実際の戦争でどの様に戦うかの作戦は、既に私の頭の中にある。本番まで秘密にするつもりなのでここでは明かせないが、期待していてくれ。あともう一つ、重要な要素がある。私がクレイトス君をノックアウトした時の一撃は、どの様な者だったかな?」
エパミノンダスの言葉で、皆の目がクレイトスに集中する。揃って戦いの決着を頭の中で思い描き始めた。
クレイトスは、エパミノンダスのジャブを受け続けてかなり顔を腫れ上がらせる事になったが、止めの一撃での外傷は特にない。これは珍しい事である。
古代ギリシアにおけるボクシングの試合は、力と力の衝突であり、一種の力比べや我慢比べである。相手の攻撃に耐えきれなくなったものが骨を折られ、血反吐を吐き、親や妻でも見分けられない様な顔になって一方が倒れるのが、決着の基本的な姿である。加えて言えば、勝った方も酷い面構え担っている事もしばしばである。
それに比べて、エパミノンダスの最後の一撃は、当たったのかどうか定かでないように見える、単にかすっただけの様なものだった。それなのに、パンチを食らったクレイトスは意識を失ってしまったのだ。
これに何の意味があるのか。
「ダメージを与えるためのパンチではなく、純粋に意識を失わせるための攻撃だったのではないでしょうか? おそらくかすっただけに見えたパンチは、頭部を揺らしていたのでしょう。
「正解だ。流石はデミトリアス君だ。完全に正解だ」
現代のボクシングでは、単純にダメージを蓄積させて相手を倒すのではなく、頭部を揺らして脳に衝撃を伝える事でノックアウトする様な技術があり、それで試合が決着する事もしばしばだ。これは、一瞬のうちに起きる事であり、脳を揺さぶられて意識を失った選手は、試合の記憶すら無い事もある。
古代ギリシアでは、現代程医学が発展していないため、脳の働きについて決定的な定説はない。
しかし、シシュポス達が生きる百年以上前には、現代でも「医学の父」と呼ばれる偉大なるギリシアの意思であるヒポクラテスは、脳が思考の根源であると唱えていた。非常に驚くべきことである。
また、この物語と同時代のギリシアにも同様の事を述べる哲学者がいる。この作品のタイトルにも関連しており、これまでも何度か言及されたアテナイのプラトンである。
これらの事から、この時代のギリシア人には、ある程度の脳の働きを知る者がいたとしても、不思議ではない。エパミノンダスは、偉大なる哲学者にして数学者である、ヒポクラテスの系譜に連なる学者でもある。学者のつながりである程度の脳の働きを知っていたとしても不思議ではない。
そして、学者ではないデミトリアスがどうしてこのような結論にたどり着いたのかと言うと、彼があらゆる運動のこーちであり、自らも優れたアスリートであるからだ。様々なトレーニングや試合の経験から、頭部、ひいては脳が人間の思考に及ぼす影響を、ある程度感じ取っていたのだ。そして、エパミノンダスとクレイトスの試合をつぶさに観察する事で、正解に辿り着いたのである。
「なんだ、エパミノンダス! こんな所におったのか。遠征から戻ったら、議会に顔を出せと議員連中が騒いでいたぞ!」
「悪い悪い。あんな頭の固い老人達を相手にしているより、若者と触れ合ってる方が楽しかったんだよ。分かるだろ?」
「それはそうだが、お前がそんなんだから、議会がお前を総司令官にする事を中々決議せんのだ。少しは自覚しろ!」
一人の男が訓練場に入って来るなり、エパミノンダスを怒鳴りつけた。それに対してエパミノンダスは悪びれる様子も無く、冗談を言うような調子で返答する。
シシュポスはこの光景を見て驚いた。エパミノンダス将軍は、テーバイ軍の総司令官になる予定である事はついさっき聞いた。ならば、その様な高い地位にある者に、これだけ乱暴に物が言えるこの男は一体何者なのか。
その答えは、シシュポスのパートナーであるデミトリアスの言葉ですぐに判明した。
「ペロピダス将軍、よくぞお戻りになられました。ご無事そうで何よりです。
エパミノンダスと口論している男の名はペロピダス――神聖隊を束ねる指揮官であった。




