第29話「意識を刈り取る一撃」
エパミノンダス将軍と、対戦相手のクレイトスは訓練場の中央で向き合っている。実際に向き合ってみると、その肉体的な格差は一目瞭然だ。
エパミノンダスとて数々の戦場で生き抜いて来た百戦錬磨の戦士だ。既に中年に差し掛かっているとはいっても、見苦しく脂肪で弛んだりはしていない。日々の節制や訓練、そして、実際に戦場を駆け巡っているからこそ維持できる体つきだ。
だが、相対するクレイトスの肉体は圧倒的である。クレイトスはまだ二十代前半と若く、その肉体の輝きは弾けんばかりだ。肌の張りや艶は、流石にどれだけ肉体を維持していたとしても、若者と中年では比べ物にならない。また、クレイトスはテーバイでも有数のアスリートである。長距離走こそ彼の恋人であるテセウスに敵わないが、細身のテセウスに比べて彼の肉体は岩石の様に逞しい。ボクシングの様に肉体の頑健さこそが有利になる競技でこそ、クレイトスの実力が発揮されるのだ。
ここまで二人の肉体について述べてきたが、これらの事は周囲で見守る者達からしてみれば、一目瞭然である。
何故なら、ボクシングも他の訓練の例に漏れず、全裸で行うからだ。
古代ギリシアでボクシングを訓練するとなれば、当然全裸である。これは現代に残る当時の壺などにも描かれている通り、史実である。
そして、何も肉体を隠す物が無い状態で向き合った選手たち、または観客たちはどう思うか。
性欲を感じるか?
そんな訳はない。肉体の完成度から、どちらが強いか本能的に判断するのである。
ボクシングの様に、相手をノックアウトするまで殴る競技では、どれだけ肉体が鍛え上げられているかで勝負の殆どが決まる。だからこそ裸で向き合った瞬間、すでに勝負は決まっていると言っても良い。
エパミノンダスとクレイトスを見守る者達も、筋肉の付き方からクレイトスの完全勝利を予感した。
そして試合が始まる。
先手を取って動き出したのは、クレイトスの方だ。一気に勝負を決めて、試合を終わらせるつもりなのだろう。早く終わらせた方が、お互い怪我も少なくて済むというものだ。
この時代のボクシングの試合は、お互いに正面切って殴り合うのが基本だ。最初に強烈な一撃を与え、相手に痛みや出血によるダメージを与える事で、万全な状態での反撃を防ぐ事が出来る。先手必勝の強打こそ、勝利へのカギなのである。そして、最初に有効な打撃を与えらるのは、より力が強い選手であるというのは常識なのだ。
だが、エパミノンダスは予想外の攻撃を実行した。渾身の力を込めて拳を振るうクレイトスに対し、力が込められているようには見えない右拳を突き出したのである。このパンチは、素早い事は素早かった。だが、体重が乗っていないパンチは必殺の一撃とは成り得ない。エパミノンダスの拳を顔面に食らったクレイトスは、多少のけぞって攻撃を中断させてしまったものの、ダメージを受けた様子は無い。
この時代のボクシングでは、渾身の力を込めたパンチでの応酬が常識である。そのため、この様なスピードだけのパンチを食らったクレイトスは一瞬面食らった。しかし、ダメージが無い事を確認すると、すぐに攻撃を再開しようとする。クレイトスの攻撃さえヒットすれば、エパミノンダスは一撃で立ち上がれないダメージを負うだろう。
しかし、この後も戦いは同じ様に展開する。スピードがあるだけでパワーの無いエパミノンダスのパンチは、次々とクレイトスにヒットしていき、クレイトスの攻撃を防ぎ続ける。この攻撃のせいで、クレイトスは自分のパンチの届く間合いに入ることすら出来ない。
読者の諸姉諸兄は既にお分かりであろうが、エパミノンダスの放っているパンチは、現代のボクシングで言うところの「ジャブ」である。
ジャブは、現代のボクシングにおける基本であり、この技術を身につけていない選手が、上位にのぼる事は極めて困難である。
この一見弱々しいパンチは、相手との間合いを図り、相手の行動を防ぎ、ダメージを蓄積させていくきわめて戦術的な技術である。現代のボクシングはジャブに代表される様々なを組み合わせ、試合を組み立てていく極めて頭脳を要求させるスポーツである。単に威力のあるパンチを振り回しているだけでは勝てないのだ。
そして、古代のボクシングでは、どれだけ強い威力で殴れるかと、どれだけパンチを受けても耐えられるかが、勝敗の基本であった。そこには戦術的な試合運びはほとんど無い。もちろん、才能があるベテランの選手は、経験から効率的な試合運びを身につけていたのだろうが、それは体系化されたものではない。これは古代のレスリングと同様である。
これは、ボクシングが単にスポーツというだけでなく、戦場における技術であった事も原因である。戦場においては、複雑な技術を身につけてもそれを有効活用できる機会はほとんどない。力強い一撃と、それに打ち勝つ頑強さが要求されるのだ。この様な戦闘の技術の発展が洗練されるのは、皮肉な事に平和な時代になってからになる事が多い。
クレイトスが今のエパミノンダスがしているような攻撃を、全く予想していなかったとしても仕方がないだろう。
弱い攻撃でも何発、何十発と食らい続けると、流石にダメージが蓄積されてくる。まぶたが切れて視界が悪くなり、鼻血が出る事で呼吸が苦しくなってくる。こうなってしまうと、集中力が乱れてしまい、相手の動きに対応する事が難しくなる。
エパミノンダスが動いたのは、その様な状況になってからだった。それまで、クレイトスの攻撃を待ち受け、ジャブで迎撃し続けてきたのだが、一瞬のうちにクレイトスの右側面に入り込んだ。クレイトスはまぶたが切れて視界が悪くなっているせいで、反応が一瞬だけ遅れる。
その一瞬を、エパミノンダスは逃さない。
左拳が一閃し、クレイトスの顎をかすめる。
その一撃は、周囲の者達からは外れた様にも見えた。彼らのとってのボクシングの一撃とは、相手の顎の骨を砕き、血反吐を吐かせ、宙に浮くほどの勢いで吹き飛ばすものなのだ。そういう類のパンチには見えない。
だが次の瞬間、クレイトスはその場に崩れ落ちた。まるで紐が切れた操り人形の様であり、この様な光景は初めてだった。
「ふう、歳は取りたくないな。汗をかいた」
エパミノンダスは余裕を残した表情で服を着ながら、クレイトスを介抱するように手で示した。
その智謀をもって知られる将軍が示した武威に、この光景を見ていた神聖隊の兵士達は皆驚愕するとともに、エパミノンダスが自分達の指揮官である事を感謝した。
「さて、今のはボクシングの試合だったが、私としてはこの理論を戦争にも応用させたいと思っている。その時に重要な役割を果たしてもらうのが、君たち神聖隊と言う訳だ。これから解説したいが……」
服を着終えたエパミノンダスは神聖隊の兵士達に向き直り、教育を開始しようとしたところでいったん区切った。
「君たち、今日は体を動かさないから、もう服を着たまえ」
あまりの緊張感で試合を見守っていたため、それまで全裸だったことにエパミノンダスに指摘されて気が付いたのだった。




