第28話「エパミノンダスの理論」
「シシュポス君がレスリングで勝つために、私がどの様なアドバイスをしたかだが、まず、クロトンのミロンという人物を知っているかね?」
目の前に並ぶ神聖隊の兵士達を前に、戦争に勝利するための方法についてエパミノンダスは語り始めた。最初はレスリングの話からである。兵士個人ごとの勝利という、小さい単位から国家としての勝利に話を繋げるつもりなのだろう。そして、レスリングという肉体だけで勝負する競技は、個人ごとの戦いの基本だとエパミノンダスは考えている。
「ミロンはクロトンの町出身のレスリングの選手で、百年以上前に活躍したと聞いてますが?」
「その通りだ。流石に知っていたか。ミロンはオリュンピア祭で二十年以上も王者の地位を守ったと言われている。さて、何故ミロンがこれ程強かったのか、理由は分かるかね? あ、シシュポス君は答えてはいかんよ。昨日教えてしまったからね」
エパミノンダスの問いに、兵士達は周りの者とひそひそと相談を始めた。レスリングに強いとは、普通なら「体が大きい」とか「力が強い」等が理由であろうが、エパミノンダスが求めている答えがその様な単純なものではないことくらい誰でも理解している。
「答えられる者はいない様だな。では説明するが、ミロンの妻は、偉大なる哲学者にして数学者のピタゴラスの娘だったのだ。つまり、ミロンは数学の知識をピタゴラスから伝授されており、その知識を利用してレスリングの王者となったのだよ」
予想外の答えに、兵士達は驚愕した。古代ギリシアにおいて、肉体を錬磨することと、哲学などの研鑽により知性を磨くことは、車の両輪として共に重視されている。しかし、知識を利用したからといって、肉体の錬磨の極限とも言えるレスリングで勝利できるなど誰も考えてはいなかった。
彼ら一般のギリシア人からしてみれば、エパミノンダスの言っている事はトンデモ理論にしか思えない。
「理解できていない様だな。例えば、ここに十の力と五の力があったとしよう。真正面からぶつかれば、当然十の力が勝つが、十の力が向かう方向とは違う方向から攻撃したとしたら? そう、五の力がぶつかるのは、十の力ではなくもっと弱いものになる。要は、ベクトルと言うものを良く考えて戦う事がひつようなのだ」
ベクトルという言葉は神聖隊の兵士達は知らなかったが、エパミノンダスの言いたいことは何となく理解出来た。彼らが訓練をしている時、自分よりも力が強い相手とぶつかっても、何故か勝てた経験は何度かある。その原因を理論的に考えてきたことが無かったのだが、おそらくエパミノンダスの説明しているような事が起きたのだろう。
エパミノンダスは、兵士の一人を目の前に立たせ、様々な方向から押して実演する事で自らの理論を実演してみせた。また、木の棒を持って来て「てこの原理」で大きく重い物を、弱い力で動かすこともやって見せた。てこの原理の発明に関しては、もう少し後の時代に生きたアルキメデスが知られているが、この時代においても数学者の中には知っている者もある程度いる。
「続けよう。アテナイには、プラトンという高名な哲学者がいるが、かれはレスリングでも活躍している。これは、哲学を通じた思索により、どの様に力を使えばよいか、理解しているからこそなのだ。つまり、頭を使う事こそ、闘争で勝利するための最良の策なのだ」
「なるほど、そうだったのか」
素直な神聖隊の若者達は、エパミノンダスの理論にただただ感服している。
なお、エパミノンダスは自信満々に語っているが、プラトンがレスリングで強かった理由が、本当に哲学を通じて磨かれた知性を要因としているのかは、実のところ不明である。
エパミノンダスは優れた知性とそこから導かれる神算鬼謀で活躍しているが、勝利のためには真実だけに拘らない側面がある。まあ、その様な黒い面もあるからこそ、戦争に強いのであるが。
「しかし、学問によりレスリングが強くなれる事は何となく分かりましたが、これが戦争での勝利に、どうつながるんですか? 一人一人が強くなることが、戦争での勝利につながるということなのでしょうか?」
エパミノンダスの解説を聞いていた者の一人が、当然の疑問を発した。一人一人が強くなれば、当然集団で戦う戦争にも強くなれる。現に、世界最強と言われるスパルタ軍の強さも、全ての兵士が小さい頃から鍛え上げ羅れている事による、個人ごとの強さの累積が半端ではないからだ。
では、そのスパルタ軍に勝利するため、テーバイ軍の兵士の一人一人を強くすると言っても、そこには限界がある。一般の兵士が多少強くなっても、スパルタ軍の雑兵にもかなわないだろう。また、神聖隊の兵士達は精鋭揃いであるため、スパルタの兵士にも勝利できるが、数が少なすぎる。神聖隊の兵士を個人ごとに多少強くしても、決定的な勝利には結びつかないだろう。
「良い質問だね。もちろん、そうではない。まずは、軍全体を一つの生き物として考えてみよう。そして、一つの生き物と言う事は、当然力を入れやすい方向もあれば、弱い方向もある。いかに強者揃いのスパルタ軍といえど、弱点とする方向は必ずある。そこを突くのが、私の戦法であり、君たち神聖隊に期待している役割なのだ。何せ、弱点を攻撃するには集団として統制のとれた動きが出来なければ、とても成功する事は出来ない。部隊として連携がとれてなければ、せっかく敵の弱点とする方向から攻撃したとしても、一つの力としてまとまってはいない事になるからね。その点、君たちは信頼できる」
神聖隊は、所属する兵士の全てが一対の恋人同士であり、団結力の強さではこれに比肩する存在がいない。また、一般の市民兵と違い、兵士として専門的に訓練しているため、複雑な動きを命じられたとしてもそれに対応する能力がある。
「何となく理解してくれたようだね。次はボクシングの試合で説明してみようか。誰か、私と戦おうと思う者はいないかな?」
エパミノンダスの言葉に、誰もが驚いた。
エパミノンダスが優れた戦術家である事は、話を聞いていて理解できたのだが、それはあくまで指揮官としての優秀さだ。すでに中年の域に差し掛かっているエパミノンダスが、テーバイ軍最精鋭の神聖隊の兵士にボクシングで勝てるとは思えない。
エパミノンダスの理論によりレスリングでは勝利出来ることは示された。しかし、レスリングは相手の背中を地面につければ、ダメージを与えなくても勝利となる。それに対し、ボクシングの試合は相手を戦闘不能になるくらい痛めつける事により決着する。
いかに、エパミノンダスが相手の弱点から攻撃したとしても、肉体の差があり過ぎてはノックアウトさせる前に反撃を食らい、逆に倒されてしまうのでないだろうか。
こんな事で、テーバイ軍の総司令官となるべき人物に怪我をされても困ってしまう。皆当惑した顔になったが、エパミノンダスは自信のある表情を崩さない。
仕方なく、シシュポスとも関係の深い、クレイトスが相手をする事になった。クレイトスは陸上競技に優れた人物だったが、その頑健な肉体を活かしボクシングでも活躍しており、神聖隊の中でもトップクラスの実力を誇っている。
強いからこそ、怪我をさせずにエパミノンダスを負かすことが出来るだろうと考えての人選だった。
エパミノンダスとクレイトスは、拳を保護するための柔らかい皮を巻き、訓練場の真ん中で向かい合った。




