第25話「父の親友」
自主トレーニングを終えたシシュポスは、自分の事をずっと眺めている人物がいる事に気が付いた。一体いつから見られているのか、それは分からない。
ただ、今の今まで、その人物の存在を全く感じ取れなかった。
訓練場は視界を遮る物無く平坦で、身を隠すような場所は何も無い。その男は、隠れる様子も無く、ただ静かにトレーニングをするシシュポスを見ているだけだった。シシュポスは家族をスパルタ軍に殺されてから一人で生きていたため、かなり注意深い方である。にも関わらず気配を感じ取れないのは、驚くべきことだった。
その男が、極端に影が薄いわけではない。
四十がらみの中年の男で、取り立てて目立つ顔立ちをしているのではない。体格も中肉中背で、テーバイ最強と謳われる精鋭揃いの神聖隊の兵士達と比べると、貧相にすら思えてくる。しかし、決して加齢とともに弛んだ様子は見られず、長年戦い続けた古参兵の様な風情を醸し出している。
そして、一番印象的なのはその目だ。その目は深い知性を秘めて輝き、全てを見通しているようにすら思えてくる。
「あなたは一体?」
この訓練場は神聖隊専用であり、一般人は紛れ込んで来ることはない。だがシシュポスは、今までこの男を見た事は無い。とは言っても、この男が一般人だとは思えない。
遠征中だと言う神聖隊の主力メンバーの誰かで、戻って来たのだろうか。
「ああ、私はテーバイ軍の関係者でね。時々こうして訓練を視察させてもらっているのさ」
「ああ、なるほど」
男の返答にシシュポスは合点がいった。神聖隊はテーバイ軍の一部であるが、常に行動を共にしているのではない。そのため、シシュポスの知らない軍の関係者は大勢いるのだ。神聖隊の主力が留守にしている間、残留している新兵の訓練の面倒を見ている、ディオスドトスの様な軍の幹部もいる。おそらく男も同じ様にテーバイ軍の幹部なのだろう。
「君は、シシュポス君だね?」
「そうですが、何故それを?」
シシュポスは神聖隊の新兵の一人に過ぎない。そのシシュポスを何故この男が知っているのか。
「ディオスドトスから君たちの訓練状況については報告を受けていてね。その中でも見所のある若者がいると聞いていたのさ」
「はあ、恐縮です」
ディオスドトスはテーバイでもかなりの有力者であり、テーバイ軍でもかなり高い地位にいる。そのディオスドトスから報告を受ける立場だと言う事は、男は相当高い地位にいるのだろう。
シシュポスは両親がテーバイ出身であるためテーバイの市民権を持っているが、テーバイで育ったわけではない。そのため、テーバイの有力者に関しては顔や名前に疎いのだ。
「それに、実は君の事は前から知っていたんだ。君はフィリッポスの息子だろう?」
「父を知っているのですか?」
「まあね。君の御父上は交易商だったが学問の同門でね。共にピタゴラス派を学んだ事があるのだよ」
ピタゴラス派の「ピタゴラス」とは、シシュポスが生きる時代から百年以上も前の人物の名前であり、偉大なる哲学者にして数学者だ。
ピタゴラスは優れた数学の業績を上げ、その中の一つが「ピタゴラスの定理」である。三平方の定理とも呼ばれるもので、現代日本に生まれて義務教育を修了した者なら誰でも数学の授業で習った事があるだろう。
その様に数学に優れていたピタゴラスは、世界は数学で解き明かす事が出来るという思想を持っており、彼の弟子たちは数学を研究する集団となっていった。
シシュポスの父は商人であったが、若い時から数学に熱中し、ピタゴラス派の師から教えを受けていた。そしてシシュポスも、生前の父から様々な数学の知識を受け継いでいる。
ピタゴラス派はこの時代において、世界でもトップクラスの数学を研究している機関であったが、秘密主義な面があり、その学問的成果はあまり外部に現れてこない。そのためシシュポスは、数学に関してあまり他人と会話した事が無い。レベルが釣り合わないのだ。
だがこの男は、実に広く深い数学の知識を有していた。父の思い出話から数学の話に内容が移り、様々な疑問点や自説などについて意見を交わしていったのだが、これは実に楽しい時間となった。
まるで生き返った父と話しているようである。
「ところで君は、かなりレスリングが上達したようだけど、流石にデミトリアス君には敵わなかったようだね」
「見てたんですか」
自主トレーニングどころか、その前のレスリングの訓練段階から見ていたようだ。デミトリアスとの試合では、尻に指を突っ込まれるなどあまり格好良くない姿を晒していたので、シシュポスは少し頬を赤らめた。
「やっぱりデミトリアスは凄いですよ。強いし、戦い方に関して色んな知識を持っているし。僕がこれまでやって来れたのも、彼のおかげだし、これからも彼の言う通りにやって行けばどんな危機でも乗り切れますよ」
「ふむ、随分と信頼しているようだね」
男は顎に手をやり、少し考え込んだ。
「しかし、頼るばかりで、それは健全と言えるのかな? 神聖隊は愛し合う男達だけの組織だ。そして愛とは対等なものだと私は思うよ。ああ、君とデミトリアス君は事情があって恋人を装っているのは聞いている。しかし、それでも戦友とは一方的に頼るものではない」
「そんな……」
「いいかね? 戦場では誰もが危険に晒される。どんなに強い男でも、仲間を守りながらではいつまでも生きていられるものではない。だから助け合う仲間が必要だ。そこには上下関係は無い。つまり、この歪な関係では、その内どちらかが死ぬことになるだろう。何と言っても我々の敵は、最強伝説をほしいままにするスパルタ軍なのだからな」
「でも、デミトリアスは凄い男です。周りのみんなもそう認めています。その彼と同等になれるなんて思えません」
シシュポスとて尊敬するデミトリアスを死なせたくはない。男の言葉からは真実味が感じられ、出来る事なら男が言う通りデミトリアスと助け合える存在になりたいと思えてきた。
しかし、デミトリアスはあらゆる戦い方に通じた真の戦士だ。その彼に並べるほど成長するには、時間がどれあっても足りるとは思えない。
そんなシシュポスの心中を見透かした男は、にやりと笑った。
「考えて見なさい。デミトリアス君よりも君が優れている部分があるぞ」
「え? それは何ですか、教えてください」
「数学だよ。数学の力で君をデミトリアスに勝たせてやろう。それもレスリングでね」
男は自信ありげシシュポスの肩を叩いた。




