第23話「全裸でレスリング」
デミトリアス考案による、二人で踊る事で連携を強化する特訓は、集団戦闘訓練でも功を奏した。ファランクスの密集隊形になった時も、周囲の仲間たちの事を考えれば自然と動作が揃う。神聖隊の兵士達は、ペアを組むデミトリアスほどシシュポスの中では大きな存在ではないが、それでもこれまで苦しい訓練を共にくぐり抜けてきた仲間である。踊り程複雑な動作をしない集団戦闘の連携なら、何の問題も無かった。周囲の仲間たちも、シシュポスが連携のために注意を払えば、彼らもそれに応えた行動をしてくれる。
この相乗効果により、シシュポス達神聖隊の新米兵士達は、一人前の兵士に勝るとも劣らない位の練度に達する事が出来たのだった。
この急激な成長には、彼らの訓練を担当するディオスドトスも満足げな表情である。
元神聖隊の古参兵であるディオスドトスが評価するのだから、シシュポス達の成長が確かなものである事は疑いようも無い。ディオスドトスはかつて神聖隊の一員として、自軍よりも大勢のスパルタ軍を相手に勝利を収めた事がある。
スパルタ軍と言えば、ギリシア世界のみならず、大国であるペルシアにもその名を轟かす精鋭揃いの軍隊だ。そのスパルタ軍と戦ってきた経歴を持つディオスドトスが太鼓判を押すのであるから、もう一人前の兵士になっていると言っても過言ではない。
成果を上げてくると、自然と自分達の実力に自信が付いてくる。そうなると連動して訓練にも張りが出てくると言うものだ。
その日のシシュポス達は、格闘訓練に励んでいた。皆、自分達の成長を自覚しているので士気は高く、誰かが監視していなくても、さぼる者など一人もいない。
格闘訓練と言っても古代ギリシアにおいては、ボクシングやレスリング、そして現代における総合格闘技に近いパンクラチオンがあるが、この日訓練されているのはレスリングである。
古代のレスリングは、オリュンピア祭の種目にもなっており、近代オリンピックでも近代的なルールのレスリングが競われており、とても伝統的なスポーツだ。
体一つで相手と取っ組み合うという行為は、世界各地の民族で普遍的に行われている文化であり、日本における相撲もよく知られているところだ。この様な力比べをするのは、人間の本能的な部分に根差しているのかも知れない。
体一つと先程記述しましたが、これまでこの作品を読んできた賢明なる読者の諸姉諸兄の方々なら当然予想が付いていると思われますが、彼らは一糸まとわぬ姿でレスリングの訓練をしております。
全裸が古代ギリシアにおける基本的な訓練スタイルなのですから、時代考証上当然こうなるのでありました。
なので、鍛え上げられた肉体を持つ、若き青年たちが、素っ裸で相手を押し倒していたとしても、それは性的な意味ではなく、肉体の鍛錬として真面目に行っているのであります。
それはともかく、訓練では自分の恋人以外の者とも肌を合わせて、レスリングの訓練をする事になる。彼らはこの物語の主人公たるシシュポスの様な一部の例外を除き、全員が同性愛者ではあるが、見境なく欲情している訳ではない。皆、真の愛を育む恋人とペアを組んでいる。
その恋人の見ている状況で、別の男と裸でくんずほぐれつ絡み合っているからといって性的な対象として見てしまったら、それは浮気としてとらえられても仕方がないだろう。
自分の恋人の男が、別の男を意識するの事に快楽を覚える、NTR属性のある二千年ほど時代を先取りした珍しい感性の持ち主なら問題ないかもしれない。だが、普通は浮気を疑ってしまうような状況を見たとしたら、当然嫉妬に怒り狂うだろう。
嫉妬に狂った恋人と、命をかけることになる戦場に出たい者はそうそういないだろう。嫉妬の炎に身を焦がす者は、自分の命すら省みずに復讐して来るかもしれない。ただでさえ敵が命を狙ってくるのに、隣にいる仲間から命を狙われては、どれだけ強い者であっても早晩戦死する事は免れない。
そして当然の事であるが、格闘訓練中に性的な事を考えている余裕など、あるわけがない。レスリングはボクシングやパンクラチオンを違い、パンチやキックの様な打撃が無いため、それらに比べると比較的安全なスポーツである。勝敗も、相手の背中を地面につける事により決するため、柔道の様な叩きつける投げ技のある競技よりも怪我をする危険性は少ない。
であるが、やはり格闘技は格闘技である。気を抜いていては骨折したり、捻挫や脱臼等、様々な危険性があるのだ。そう言う訳で、訓練している者達は皆真剣そのものの表情である。余計な事を考えている者は一人もいない。
シシュポスも、今は目の前の男と真剣勝負を繰り広げている。相手をしているのは、入隊初期にシシュポスに突っかかって来ることの多かったテセウスである。
「くっ……」
「でりゃあぁ!」
互いに相手の腕を取り合った状態で、組み伏せるべく力を込め合っている。シシュポスは歯を食いしばって息を細く漏らし、テセウスは威勢の良い掛け声を上げている。両者は対照的な力の出し方をしているが、どちらも間違っているのではない。このあたりはそれぞれの個性が現れているのだろう。
しばらく両者は組み合ったまま動かない。
疲れて休んでいるのではなく、相手が力尽きるか、隙を見せるかを待っているのだ。
そして、その時は訪れた。
シシュポスが一瞬力を抜いたその瞬間、これを好機と見たテセウスが一気に全身全霊の力を込めて組み付こうとしたのだ。
だが、これは巧妙に仕組まれた罠であった。
シシュポスは組み付こうと力を込めたテセウスの突進を回避し、するりとテセウスの後ろに回り込んで両手を相手の腰に巻き付けた。
股間のモノでテセウスの尻を突こうというのではない。当り前であるが。
背後をとる事は、格闘において絶対的に有利な状況になる。これはボクシングの様な打撃系のみならず、レスリングの様な組み技系の競技においても同様である。
背後から組み付かれた場合、反撃が非常に難しいし、重心を容易く制御されてしまう。そのため、身長や体重ではシシュポスよりも上であるテセウスの体を、今のシシュポスは容易く持ち上げる事が出来た。
「セイッ!」
気合一閃、シシュポスはテセウスの体を後方に投げ、その背中を地面に叩きつけた。叩きつけたといってもこれは訓練のため、痛めつけるような勢いではない。しかし、実戦で本気で投げ飛ばしていたなら、戦闘不能に陥らせる事も可能だっただろう。
パンチやキックの様な派手さは無いが、投げ技は固い地面に体重をかける事が出来る。その威力は、打撃技に劣るものではないのだ。
「参った!」
「これで、三勝二敗で、僕の勝ち越しかな。やっぱりテセウスは強いね」
「何を言ってやがる。ほんの一か月前まで完全なド素人だったくせに、よくここまで強くなったもんだ」
今回の訓練の規定では五本勝負だったため、勝負が終わったシシュポスはテセウスを助け起こした。
テセウスの言う通り、シシュポスは神聖隊に入隊する前には取り立てて運動をしておらず、入隊当初は完全に落ちこぼれていた。それを今の様に、テーバイでも名の知れたアスリートであるテセウスに勝利出来るほど成長できたのは、ひとえにデミトリアスの指導のおかげだ。
もちろんシシュポスの必死の努力もあってこその成長だが、トレーニングのコーチとして様々な知識のあるデミトリアスが居なければ、とてもここまでこれなかっただろう。
シシュポスは同性愛者ではないため、デミトリアスの事を愛しているのではないが、彼の事を全面的に信頼していた。恐らく彼が言う事なら何でも聞くだろう。
「ほほう。シシュポス、やるじゃないか。テセウスを倒すとは」
当のデミトリアスが、勝負を終えたシシュポスに近づいて来た。デミトリアスもこれまで他の相手とレスリングで勝負していたのだが、こちらは苦も無く瞬殺して来たらしい。息の上がるシシュポスと違い、平然としたままだ。
「どうだ、ここは一つ、俺と勝負してみようか」
「……! お願いします!」
デミトリアスは、身長、体重、筋力、技術等のあらゆる面で、シシュポスを凌駕している。とても勝てる相手ではない。
剣や槍の試合では、シシュポスはデミトリアスを追い詰める事もあるのだが、体一つで戦う格闘技――特に力比べをするレスリングにおいては、体格の差を覆すのは並の事ではない。ましてやデミトリアスの方が技術が上なのである。
だが、シシュポスはデミトリアスに勝負を挑むことにした。
デミトリアスの絶対的な強さを信じているからこそ、自分の全てをぶつけたいのである。この感覚は、父親の力を信じる子供が、全力でチャンバラや相撲を仕掛けるのと似ているかもしれない。父親をスパルタ軍に殺され、天涯孤独の身であるシシュポスにとって、精鋭揃いの神聖隊でも一目置かれる実力を持つデミトリアスには、父性を感じているのかもしれない。
シシュポスは、全身全霊の力を込めてデミトリアスに組み付いていった。




