第12話「愛の力」
後ろからシシュポスとデミトリアスの組が迫っている事に、テセウスとクレイトスは驚愕した。
スタートした直後、彼らが最後尾をゆっくりと走っているのは確認している。それが、今回参加した神聖隊の兵士達の中で圧倒的な走力を誇るテセウスとクレイトスに追いついたとは、とても信じられない。
また、デミトリアスは優れた運動能力を持ち、テセウスとクレイトスに迫る走力を有している。だが、彼とペアを組んでいるのはまだ入隊間もないシシュポスだ。シシュポスは入隊前もそれほど運動をして来た経験は無いようで、その彼がテセウスとクレイトスに追いつくなど有り得ることではない。
デミトリアスの指導により限界を超えたトレーニングをしているのは見ていたが、ほんの二週間程度の期間でここまで伸びるとは信じがたい事だ。
テセウスとクレイトスは幼少から専門的な運動の訓練を積んできたので、シシュポスの様な未経験者がこれだけの成長をしている事が、逆に信じられなかった。
だが、彼らはシシュポスが元々長距離走に向いた身体能力を持っている事に気付いていなかったのだ。
入隊の際、デミトリアスはシシュポスの臀部から大腿部等の下半身を撫でまわしていた。これは、性的な意味合いで撫でまわしたのではない。シシュポスの筋肉は、この様な超長距離で持久力を争う競技でこそ力を発揮するとこの時判断したのだ。
シシュポスは、商人である父に連れられて、ギリシア全土の行商に徒歩で連れまわされていた。シシュポスの父は、他の商人よりも利益を少しでも出そうとして、かなり無理のある距離と速度を行くのが常態化していた。この経験がシシュポスの持久力を鍛えたのである。
テセウスとクレイトスが訓練して来たドリコス走は、約4km程度である。約90kmを走破する今回の競技においては、ドリコス走の経験よりも長距離を歩き回って培った持久力の方が力を発揮したのである。
デミトリアスは、今回の競技を企画したディオスドトスが周辺のポリスと、コース警備や給水に関して打ち合わせしているのを耳にしていた。このため、今回の競技を事前に予想していたのである。
そして、出会ったときに確かめたシシュポスの筋肉の付き方から、長距離走でこそ能力を発揮できると判断したのだ。
単にセクハラで撫でまわしたのではないのである。
更に、シシュポスが入隊してからの訓練では、常に限界を超えて動き続ける事を主眼にトレーニングしていた。これは、シシュポスがいかに長距離走への適性があるからといって、運動に慣れていない者はくるしくなるとすぐに手を抜いてしまうものだ。これは、さぼりとか怠けているとかではなく、本能的なものだ。
そこで、常に限界を超えて動き続ける事を体に染み込ませ、競技会の本番ではデミトリアスが常に掛け声をかけ続けてきた。これにより、シシュポスは苦しくて最早なにも考えていないのだが、自動的に体を動かし続ける事ができ、こうして今テセウスとクレイトスに追いつこうとしているのである。
「嘘だ! こんな奴らに……こんな、愛し合っていない偽物なんかに、俺達が負けるはずがない!」
「落ち着け、テセウス! 心を乱すな!」
予想にしていなかった展開により、テセウスの心は乱されてペースは更に落ちて行った。
運動は、単に肉体に優れていれば勝てると言うものではない。特に極限状態での争いには、精神面での影響が非常に大きくでる。だからこそ、一流の選手はメンタルトレーニングを重視するし、コーチも選手のメンタル管理に気を配る。メンタル専門のコーチを雇う者だっているのだ。
そもそも、一流のアスリートになるためには、苦しい訓練に耐えなければならない。現代では科学的なトレーニングにより効率的なものになっているが、これは言い換えて見れば効率的に体に負荷をかけることにも繋がるのだ。つまり、楽なトレーニングなど有り得ないのだ。
苦しいトレーニングに耐えるには、強いメンタルが必要となるので、メンタル面で弱い者はフィジカルが強くなるのも難しい。
そして、一番簡単にメンタル面を強くする方法は、コーチが信頼される事だ。コーチの言う事を信じられるのであれば、苦しい訓練にも耐えられるし、競技の苦しい場面でも落ち着いていられる。
目を転じて神聖隊においては、コーチではないがペアを組むのは全て恋人同士である。これは、メンタル面において絶大な効果を生む。
愛する者と一緒ならば、どんな苦しい訓練にも耐えられるし、戦場や競技などでピンチになろうと落ち着いていられる。愛する者と一緒にいる事は、精神的な安定が得られるし、取り乱したりさぼったりする醜い姿を晒す事など出来ない。恋人に幻滅されるのは何よりも苦しいし、自らの評価を落とすことは恋人も同じ様に周囲から見られてしまうからだ。
一言で言ってしまえば、愛の力と言う訳だ。
だが、シシュポスとデミトリアスは違う。
シシュポスは重装歩兵として武装するだけの資産がないが、スパルタと戦うために神聖隊を志願した。神聖隊では武装や食事が支給されるからだ。そして、ペアを組むデミトリアスの事は愛していない。また、デミトリアスも何を考えているのか分からないが、シシュポスを愛していないのは確かなはずだ。入隊を審査していたクレイトスには「一目惚れ」などと嘯き、クレイトスはそれを信じている。だが、テセウスはその様な事は信じていない。
だから、シシュポスとデミトリアスの組が、愛の力を発揮する事は出来ない筈だ。
神聖隊の力の源は、男同士の愛の力である。これを信じてテセウスは、愛するクレイトスと神聖隊に入隊した。
それなのに、真に愛し合う二人が、偽物のカップルに負けるなどあってはならないのだ。
高名な哲学者であるプラトンが、愛し合う男達が軍隊を構成したのなら、それは世界最強の存在になると著書で記述している。ならば今、幼い頃から愛情を育んできたテセウスとクレイトスを打ち負かそうとしているこの二人は、一体何なのか。
愛の力は幻想だったのか。
それとも、この二人は。
その様な事を考えてペースを乱したテセウスとクレイトスを、無情にもシシュポスとデミトリアスが抜き去って行った。




