第11話「残り100スタディオン」
テーバイからデルポイの神殿までの、約470スタディオン(90km)の道のりを走破する長距離走競技会において、その先頭を行くのはテセウスとクレイトスの組だった。やはり長距離走のドリコス走競技で、オリュンピア祭の出場選手候補になるほどの実力は、他の者達とは段違いだ。
コースの沿道には、テーバイやそれと友好関係にあるポリスから、警備や道案内の兵士、水や食べ物を支給する住人達が時折見られた。この時代の長距離走と言えばドリコス走であるが、これは20スタディオンにすぎない。それを遥かに超える470スタディオンを走破するために、ディオスドトス達上層部も細心の注意を払ったのだろう。
テーバイも含めたこのボイオティア地方や、デルポイの神殿があるポーキス地方はペエポネソス戦争などの影響により、しばらくの間スパルタの支配下にあった。スパルタの支配下にあるポリスは、上層部をスパルタの息がかかった者に挿げ替えられて隷属に甘んじていたのだ。
それを打破したのがテーバイの有力者であったペロピダスや、その親友であるエパミノンダスといった者達であり、彼らの活躍でこの地域はスパルタの支配を脱している。
その戦いは今も続いており、ペロピダス将軍らは神聖隊の主力やテーバイ市民軍を率いて各地を転戦している。その内スパルタ本国との決戦が待っているだろう。
そして、この様な事情があるからこそ、テーバイ以外のポリスの住民も、この神聖隊の長距離走を支援しているのである。もしもスパルタとの全面戦争が起きたのなら、反スパルタ同盟軍の中核となるのは当然テーバイであり、そのテーバイの最強部隊は言わずと知れた神聖隊なのだ。その神聖隊の訓練のためならば、多少の協力は望むところだ。
また、この競技会はデモンストレーション的な意味もある。
スパルタの兵士は幼少から戦闘技術を叩き込まれた、世界最強の戦士として知られている。それと対抗するテーバイにも、常識を遥かに超える長距離を走破する戦士がいる事を、広く知らしめる事が反スパルタのポリスの団結を深める事になるのだ。
つまり、この競技会は単に神聖隊の新米兵士の訓練だけでなく、もっと大きな意味合いがあるのであった。これ位の事は、この地域に生きる者達なら肌感覚で理解しているだろう。
自分たちの未来を左右するからこそ、支援にも応援にも熱が入ると言うものだ。
「キャー! こっち来たわよ!」
「見て、あの二人、息がピッタリ」
「がんばってー!」
……沿道に駆けつけたの若い女性の中には、その様な政治的・軍事的な目的など関係なしに、何やら腐った目、腐った心による邪な感情で応援している者が多いが、それは考えないでおくのが幸せである。
まあ、それはともかく、テーバイや近隣のポリスの住民の支援のおかげで、この時代としては常識外れの長距離を走る事になった神聖隊の兵士達も、何とか脱落せずに走り続けていられる。
先頭を駆けるテセウスとクレイトスの組は、正午になるかなり前には中間地点を通過する事が出来た。圧倒的な速度で走っているため、時折後ろを見ても後続の集団は見えない。この地域には森林に乏しいので地平線まで見渡す事が出来る。それなのに見えないと言う事は、相当引き離したのだろう。
「まだ、半分か……」
「もう、半分だと考えるべきだぞ」
「ああ、そうだな。分かったよ」
ネガティブさが含まれたテセウスの発言を、クレイトスがたしなめた。テセウスは長距離走の選手として名高いが、彼を幼少のころから導いてきたのはクレイトスなのだ。テセウスの未熟さを修正するのはいつものクレイトスの役割であり、テセウスも素直に受け入れる事ができる。
「じゃあ、あと半分も、このペースで走り抜けるぞ」
「いや、ペースは少し落とした方が良いと思う」
「何? まだまだ体力は余っているだろう。このままいけるはずだ」
「そうかもしれないが……」
ポジティブな考え方をするべきだと促したクレイトスであったが、レースの走り方まで楽観視する事はクレイトスは考えていない。確かにクレイトスの体感からもまだ体力は半分以上余っており、その理屈から行くと残りのコース半分も、同じペースで走破可能だ。
クレイトスとしては安全策を取りたかったが、テセウスのやる気に水を差すのも気が引ける。それに自分の事を信頼する恋人の前で、弱気な態度を取る事も避けたかった。
結局、彼らはこれまでと変わらぬ速度で走ることにした。
しかし、それがいけなかった。
マラソンなどを経験した読者の諸姉諸兄は実感しているだろうが、長距離走で自分のコンディションを正確に把握し、それに適合したペースを保つのは非常に難しい。体力がまだ半分以上残っていると判断したテセウスとクレイトスも、エネルギー、筋疲労、衝撃による脚部へのダメージは考慮していなかった。これは、ひとえに経験の少なさが影響していると言えよう。もちろん、20スタディオンを走るドリコス走が長距離走であるこの時代に、470スタディオンを走るためのノウハウは蓄積されていない。
加えて言えば、これから太陽は南中に差し掛かり、気温はまだまだ上昇する。これから体力の消耗は加速して来るのだ。
そして、今は夏の季節だ。地中海の灼熱の太陽が照り付ける。はっきり言ってこの季節に90kmも走る競技を開催し、初心者ばかりを参加させるなど正気の沙汰ではない。これは前人未到の競技であるための、開催側の認識不足からも来ている事だ。
これらの要因により、テセウスとクレイトスは急速に消耗する事になる。走る速度は目に見えて低下し、各給水地点で水を飲む量が増える。作戦の失敗は明らかだった。
それでも互いを責める事はない。愛し合う二人が話し合って決めた事なのだ。その結果に対して文句を言うような醜い姿を恋人に見せる事が出来ないのだ。
それに前半の圧倒的な速度を考えれば、多少ペースが落ちたとしても彼らの勝利は揺るがないはずであった。大体、470スタディオンの長距離走に慣れていないのは他の組も同じだ。ペースを崩したのはテセウスとクレイトスだけではないと考えるのが妥当である。
その様にポジティブに考えて走り続けていた。
その考えを打ち砕くような音が、後方から近付いてきたのは、コースの残りが100スタディオンであると道案内の兵士から伝えられてからしばらくしてからだ。
後ろから、数を数える掛け声と、それにリズムを合わせた足音が近づいてくる。疲労のため最近は後ろを振り返るのが億劫になっていたため、後続の接近は確認していなかった。
驚いて振り向いたテセウスとクレイトスの目に飛び込んできたのは、シシュポスとデミトリアスであった。




