疑念
――王女エレオノーラ・フォン・ハイデンベルク。
二十二歳の王国第一王女。
幼少期より王都で育ち、外交、歴史、礼法、音楽、語学を修める。
剣術については、護身術として数年の経験あり。
軍務経験なし。従軍経験なし。
「……だろうな」
ヴァルターは書類を一枚めくった。
机の向こうで魔族の男が頷く。ヴァルターが王女についての資料を集めるよう命令した男だ。
「王女殿下について、人間側から提出された資料は以上です」
「他には?」
「こちらで確認できたものも概ね一致しています。王都から離れた記録もほとんどありません」
「一応聞いておこう。北部戦線へ行ったことは」
「ありません」
「軍議への参加は」
「少なくとも記録上はないかと」
ヴァルターは資料へ視線を戻す。
王女が軍事に詳しいことが妙なのではない。
本を読んだ。将軍から聞いた。興味があった。
それだけなら説明はつく。
しかし。
兵士の踏み込みを見ただけで、重心の位置まで見抜く。
戦場の保存食について、自分で食べたように話す。
北部戦線について「苦戦した」と言う。
……一つ一つなら、些細なこととはいえ、重なると妙だった。
「陛下はエレオノーラ殿下を疑っておられるのですか」
ヴァルターは少し考えて答える。
「疑うべきか分からんから調べているのだ」
男が小さく息を吐いた。
ヴァルターは書類を閉じる。
――少なくとも、目の前の王女には資料にない何かがある。それだけは確かだった。
*
その頃、アルバートは侍女に髪を整えられていた。
「大人しくしてくださいませ」
「動いてませんが」
「動きたがってるのが伝わってくるのですよ」
鏡の中にはエレオノーラがいる。
淡い金髪。白い肌。柔らかな輪郭。
何度見ても自分の顔には思えなかった。
……当たり前だ。自分の顔ではないのだから。
「本日の予定は如何しましょう?」
アルバートは少し考える。
昨日は城内を見た。訓練場も見た。軍事区域には入るなと言われている。
……なら、勇者として次に確認するべき場所は。
「城下へ出ることはできますか」
侍女の手が止まった。
「城下、ですか?」
「はい」
「ヴァルター陛下の許可があれば可能かとは存じますが……」
「では聞いてみます」
「何をなさるおつもりで?」
「魔族がどのように暮らしているのか、見ておきたいので」
アルバートは鏡越しに侍女を見る。
城内だけを見ていても、魔族という国そのものは分からない。
治安。人々の様子。魔王への反応。
魔王を殺した後、国がどう動くのかを考える材料にもなる。
侍女は少しだけ目を丸くした。
「……ヴァルター陛下にご相談いたしましょう」
「お願いします」
「ただし護衛なしでは無理かと」
「私に護衛は必要ありません」
「エレオノーラ姫に護衛は必要です」
アルバートは黙った。
「……分かりました」
侍女が満足そうに頷く。
どうしてなのかアルバートにはさっぱりわからなかった。
*
「城下へ?……何故」
執務室で、ヴァルターが顔を上げた。
「見てみたいので」
「何をだ」
「ここで暮らす人たちを」
ヴァルターがアルバートを見る。
アルバートは王女らしく微笑んだ。
少し間があって、ヴァルターは頷いた。
「構わん、ただし護衛は付ける」
「必要ありません」
「必要だ」
「私は戦えます」
言ってすぐにアルバートは止まった。言葉を間違えた。
ヴァルターも止まった。
「……護身程度に?」
「……はい」
「そうか」
魔王の目が少し細くなる。
……最近、この男は時々こういう目をする。
「では、護衛は少人数で」
「交渉するところではない」
「多いと目立ちます」
「王女が城下を歩けば護衛の人数に関係なく目立つ」
「変装すればよいでしょうか」
「……随分慣れているな」
アルバートは口を閉じた。
「冗談だ」
ヴァルターが笑う。
「二人付ける。それで妥協しろ」
「分かりました」
「それと、俺も行く」
アルバートは少し驚いた。
「魔王陛下も?」
「何か問題でも?」
「いえ」
むしろ都合はいい。
魔王が民とどう接するか。民が魔王をどう見るか。
観察することができるのだから。
「では、お願いします」
「……本当に即答するな、お前は」
「駄目でしたか」
「いや」
ヴァルターは書類を閉じた。
「明日の午前にする」
「はい。では失礼します」
アルバートは一礼し、部屋を出る。
ヴァルターはしばらく王女が出ていった扉を見ていた。
「陛下」
部下が声をかける。
「今、エレオノーラ殿下が『私は戦えます』と。……妙ですね」
「……今更だ」
*
翌日。
城下へ出る前に、アルバートは簡素な衣服へ着替えさせられた。
王女だと一目で分かるような豪華さではないが、それでも上等な布地であることは分かる。
髪も普段より簡単にまとめられた。
「これで変装になるのですか」
「なりません」
侍女は断言した。
「少し目立ちにくくなる程度です」
「そうですか」
「エレオノーラ様のお顔は知られておりますので」
アルバートは鏡を見る。確かに顔までは変わっていない。
「顔も変えれば」
侍女がアルバートを見る。
「……何でもございません」
そうだった。
アルバートが受けたのは秘術だった。そう安々とかけられるわけもない。
*
城下は、思っていたより賑やかだった。
石造りの建物が並び、通りには多くの人が行き交っている。
角のある者。獣の耳を持つ者。鱗のある者。人間と変わらない者。
商人が声を上げ、子どもが走り回っている。
戦場で見たことのある種族も、見たことのない種族もいた。
どの魔族も戦場では見たことのない様子だった。
当然だ。戦場にいるのは兵士だ。国にいる者の大半は、兵士ではない。
「珍しいか」
隣を歩くヴァルターが聞く。
「はい」
「そうだろうな」
「人間の街と、あまり変わらない」
ヴァルターが少し笑った。
「昨日も同じことを言っていたな」
「そうでしたか」
「ああ」
通りの向こうから、小さな子どもが走ってくる。
母親らしき女が慌てて追いかけてきた。
「こら! 陛下の前ですよ!」
子どもは止まり、魔王を見上げた。
「まおうさま」
「ああ、どうかしたか?」
ヴァルターは屈んで子どもに視線を合わせた。
「ほんものの?」
「ああ」
子どもはしばらく魔王を見て、それからアルバートを見る。
「およめさん?」
「そうらしい」
「ほんもののおひめさま?」
母親が青ざめている。
アルバートは少し考えた。
エレオノーラなら、どうするだろうか。
……恐らくしゃがんで笑いかけるだろう。
アルバートは腰を屈め、練習した通りに微笑んだ。
「はい。お姫様です」
「きれい!」
「ありがとうございます」
子どもは満足したらしい。
母親に抱えられるように連れていかれた。
ヴァルターが横で小さく息を吐く。
「何か変でしたか」
「そういうところは随分王女らしいと思ってな」
アルバートは少しだけ安心した。
「練習しましたので」
……ヴァルターの足が止まった。
アルバートも止まる。
沈黙。
「あ」
今のはかなりよくなかった。
「……何を?」
ヴァルターがゆっくり聞く。
「王女として、適切な笑い方を」
「お前は王女だろう」
「……そうですね」
ヴァルターが黙る。アルバートも黙る。
「エレオノーラ姫。お前は時々、妙なことを言うな」
「そうでしょうか」
「ああ」
「気をつけます」
「……そういう問題でもないんだが」
ヴァルターは再び歩き始めた。
アルバートも後を追う。
かなり失敗した気がする……が、まだなんとかなるだろう。
*
城へ戻った後。
ヴァルターは執務室へ入るなり言った。
「勇者アルバート・シュミットについて調べろ」
部下が固まった。
「……勇者?」
「ああ」
「何故突然」
ヴァルターは椅子へ腰を下ろす。
戦場で三度見た男。
聖剣を持った勇者。剣筋の鋭い剣士。
妙に静かで、戦場全体を異様なほどよく見ていて、こちらの癖をすぐに覚え、一度見た技には二度と同じようには引っかからない男。……そして、胸に女神の印を持つ。
対してヴァルターの接するエレオノーラ王女はこうだった。
剣を護身程度に嗜み、兵站に詳しく戦場の保存食を知り、北部戦線を経験者のように語り、兵士の重心を一目で見抜く。
「笑い方を練習した」と言った女。……そして、屈んだ際、胸元に痣のような紋様の一部が覗く。位置も、色も。戦場で見た勇者の印によく似ていた。
「陛下?」
「王女と勇者について、共通点を洗え」
「はい?」
「体格、年齢、経歴。何でもいい」
「まさか」
男が言葉を切る。ヴァルターは答えなかった。
――まだ、確証はない。
そんなことが可能なのかも分からない。
だが。
「……似すぎている」
――戦場で感じていた感覚と、ともに過ごす王女の違和感が少しずつ同じ形を取り始めていた。




