明日
新月まで、あと十二日。
朝食を終えると、ヴァルターは立ち上がった。
「今日は昼まで執務だ」
「そう」
アルバートは紅茶を飲む。
最近名前を覚えた茶葉だった。
少し渋い。でも嫌いではない。
「お前は?」
「何が」
「今日の予定」
アルバートは少し考えた。
「ない」
「本当に?」
「うん」
「なら好きにしていろ」
ヴァルターはそう言って、扉へ向かう。
アルバートはその背中を見送った。
――あと十二日。
次の新月までに、あれを殺す。
そう考えてから、カップに視線を戻した。
「ヴァルター」
魔王が振り返る。
「何だ」
「今日、戦える?」
「朝からそれか」
「夜でもいい」
「今日は遅くなる」
「明日は?」
ヴァルターが少し考える。
「夕食後なら」
「分かった」
「……随分嬉しそうだな」
アルバートは自分の顔に触れた。
「そう?」
「ああ」
「別に」
「なら今の話は忘れるか」
「駄目」
即答すると、ヴァルターが笑った。
「分かった。明日だ」
「うん」
ヴァルターが部屋を出ていく。
アルバートは紅茶を飲んだ。
明日。その言葉を頭の中で繰り返した。
*
午前中は一人で過ごした。
本を読む気にはならなかったので、城の中を歩く。
王女として出歩く以上、侍女も一緒だった。
すれ違う者には軽く会釈をする。
必要なら微笑む。
エレオノーラならどうするか。
それはもう、以前ほど考えなくてもできるようになっていた。
廊下を曲がる。少し先に、昨日の工房へ続く道が見えた。
アルバートは足を止めた。
「殿下?」
侍女が声をかける。
「いえ、何も」
そう答えて歩き出す。
また来てもいいかと訊いたとき、行ってもいいとヴァルターは言った。
……必要だからではなく、見たいから。
アルバートは少しだけ工房の方向を見る。
「……」
今日はやめた。一人で行く理由もない。
そう思ったところで、少し引っかかった。
一人でも行けばいい。見たいのは剣だ。
ヴァルターがいなくても剣はある。
なのに。
昨日と同じように行きたいと思うと、隣には自然にヴァルターがいた。
「殿下?」
「何」
「本当に何でもありませんか」
「うん」
歩く。考える必要はない。
*
昼過ぎ。
アルバートが部屋へ戻ると、机の上に小さな包みが置かれていた。
「これは?」
侍女が答える。
「陛下からです」
「陛下から」
「はい」
包みを開く。中にはベルト付きの短剣が一本入っていた。
昨日、工房で持ったものとよく似ている。
いや。
アルバートは手に取る。
同じではない。少し軽い。柄も僅かに細い。
……今の身体の手に合わせてある。
「……」
鞘から抜く。
刃渡り。重心。握り。
昨日のものより、こちらの方が扱いやすい。
小さな紙が添えられていた。
『予備が必要なのだろう』
それだけ。
アルバートは紙を見る。それから短剣を見る。
「……ずるい」
「何か?」
侍女が訊く。
「いえ、何も」
短剣をもう一度握る。
昨日必要かと訊かれて、必要だと答えた。
でも、好きだとも言った。
ヴァルターは両方覚えていたらしい。
必要だから。それだけなら、同じものを渡せばいい。
これは違う。今の自分の手に合わせてある。
アルバートは短剣を鞘に戻した。
腿につける。少し歩く。
邪魔にならない。
抜く。戻す。
もう一度。
「……いい」
侍女が少し笑った。
「お気に召しましたか」
アルバートは短剣を見る。
「とても」
今度はすぐ答えられた。
*
夕方。
執務を終えたヴァルターが部屋へ入る。
アルバートは椅子から立ち上がった。
「これ」
アルバートはスカートの裾を持ち上げた。
腿に固定した鞘が見える。ヴァルターが一瞬黙る。
「……届いたか」
「うん。何で形違うの」
「昨日のものは少し大きかっただろう」
「見てた?」
「見ていれば分かる」
アルバートはさらに少し裾を上げ、固定具を見る。
「これも違う」
「分かったから、もう下ろせ」
「何で」
「いいから」
アルバートは首を傾げながら裾を戻した。
見ていれば分かる。どこかで聞いた言葉だった。
「俺も昨日それ言った」
「何を」
「持てば分かるって」
「ああ」
ヴァルターが笑う。
「なら同じだな」
「違うだろ」
「何が」
「俺は剣の話」
「俺も剣の話をしている」
アルバートは短剣を見る。
違う気がする。
でも、うまく説明できない。
「……ありがとう」
ヴァルターが一瞬黙った。
「今何と言った」
「ありがとう」
「いや、聞こえなかったわけではない」
「じゃあ何」
「珍しいと思って」
「そう?」
「ああ」
「貰ったから言っただけ」
「そうか」
ヴァルターはまだ少し笑っている。アルバートは眉を寄せた。
「何」
「何でもない」
「さっきからそれ多くない?」
「お前に言われたくない」
それはそうかもしれない。
*
夕食の後、二人で城の中を歩く。
特に目的はなかった。
ヴァルターが執務室へ戻る途中で、アルバートがなんとなくついてきただけだ。
「どこまで来るんだ」
「知らない」
「俺の執務室だぞ」
「うん」
「用は?」
「ない」
ヴァルターが足を止める。アルバートも止まった。
「なら何故ついてくる」
「……」
訊かれて初めて考える。
何故。特に用はない。話があるわけでもない。戦う予定は明日。何か見たいものがあるわけでもない。
ただ、ヴァルターが部屋へ戻ると言ったから、一緒に歩いてきた。
「分からない」
正直に答える。
ヴァルターが少し目を細める。
「そうか」
「変?」
「いや」
「なら何」
「何でもない」
「またそれ」
「お前もよく言うだろう」
アルバートは少し考えた。
「じゃあいい」
また歩き始める。ヴァルターも隣を歩く。
しばらくして、ヴァルターが言った。
「短剣」
「何」
「気に入ったか」
「うん」
「そうか」
それだけだった。
何故好きなのかとは訊かなかった。性能の話もしない。
好きだと言えば、それで終わった。
アルバートは少しだけ不思議に思う。
以前なら、自分でも理由を探した。
軽いから。握りやすいから。使いやすいから。
何か理由が必要だと思っていた。
でも今は、好きだから持っている。それでいいらしい。
「ヴァルター」
「何だ」
「明日、忘れるなよ」
「何を」
「戦うの」
「ああ」
「約束したから」
ヴァルターが笑う。
「分かった。忘れない」
「うん」
アルバートは頷く。
明日、戦う。
その次の日は分からない。そのまた次も。
新月まで、あと十二日。
あと十二日もある。そう考えた。
*
夜。
寝台に入り、アルバートは天井を見る。
腿から外した短剣が、机の上に置いてある。
明日はヴァルターと戦う。
その前に朝食を食べる。多分また紅茶が出る。
昼は何をするだろう。
鍛冶場にも、もう一度行きたい。
短剣を作った職人にも訊きたいことがある。
ヴァルターにも。
まだ知らないことがある。
何が好きなのか。何が嫌いなのか。何故、魔王になったのか。
戦場では知らなかったこと。
必要ではなかったこと。
アルバートは目を閉じた。
明日。また。次。
最近、その言葉をよく考える。
それが何を意味するのかは、まだ分からなかった。
――新月まで、あと十二日だった。




