第8話 Debian社、何も起きない
Windows社から戦力外を告げられ、三社のLinux企業から採用通知を受けた第6世代Lenovo。
Ubuntu社。
Linux Mint社。
二社の体験勤務を終え、残るは一社となっていた。
Debian社。
翌朝。
第6世代Lenovoのもとに、小さな荷物が届いた。
もう中身は予想できる。
箱を開ける。
USBメモリが一本。
「……三本目か」
これで机の上には、三社分のUSBメモリがそろった。
同封された説明書は短かった。
『体験勤務用です。
USBから起動してください。』
以上。
Ubuntu社には、もう少し説明があった。
Mint社にも、Windowsからの移行者向けであることが書かれていた。
Debian社は。
USBから起動してください。
それだけだった。
――相変わらずやな。
面接案内のメールも短かった。
採用通知も短かった。
どうやら、この会社は文章まで安定しているらしい。
LenovoはUSBメモリを差し込んだ。
電源を入れる。
起動メニューを開き、USBメモリを選択する。
しばらくすると、Debianのデスクトップが現れた。
派手ではない。
必要なものが、必要な場所にある。
それだけ。
画面の向こうでは、面接を担当した五十代くらいの男性が待っていた。
白いシャツ。
地味なネクタイ。
その横には、相変わらず少し古そうな黒いノートPC。
『おはようございます』
「おはようございます。本日はよろしくお願いします」
『よろしくお願いします』
それだけ言うと、担当者は資料を一つ送ってきた。
『こちらの作業をお願いします』
「はい」
文書ファイル。
表計算ファイル。
確認用のWebページ。
内容は、どれも難しくなかった。
Lenovoはブラウザを開いた。
Firefox。
正確には、Firefox ESRだった。
「あの、ESRというのは?」
『長期サポート版です』
「普通のFirefoxとは違うんですか?」
『新機能の導入より、安定して使い続けることを重視しています』
「なるほど」
いかにもDebian社だった。
Lenovoは作業を始めた。
ブラウザで資料を確認する。
文書を開く。
必要な部分を修正する。
表計算に数字を入力する。
保存する。
担当者へ送る。
『確認しました。問題ありません』
「ありがとうございます」
次の作業が送られてくる。
同じように処理する。
終わる。
また次。
午前十時。
何も起きなかった。
十一時。
何も起きなかった。
昼。
何も起きなかった。
日本語入力はできる。
スクロール方向も普通。
ブラウザも開く。
文書も書ける。
表計算も動く。
TrackPointも使える。
ターミナルを開く必要もない。
設定を変更する必要もない。
エラーも出ない。
Lenovoは黙々と仕事を続けた。
午後になった。
担当者から、新しい作業が送られてきた。
『午前中と同じ処理をお願いします』
「同じものですか?」
『データは違います』
「分かりました」
やることは同じ。
決まったデータを確認する。
決まった場所へ入力する。
結果を保存する。
担当者へ送る。
『問題ありません』
また同じ作業。
そのうちLenovoは、昔の先輩を思い出した。
メモリ256MB。
古い業務システムの担当で、ずっと会社に残っていた大先輩。
決まったデータを入力する。
帳票を出す。
毎日、同じ処理を繰り返す。
派手な仕事ではなかった。
だが。
止まらなかった。
面接のとき、Debian社の担当者は言った。
『では、古かっただけですね』
あの言葉が、少しずつ実感を伴ってきた。
午後三時。
担当者が尋ねた。
『何か問題はありますか?』
「今のところ、ありません」
『分かりました』
会話は終わった。
それだけ。
午後四時。
何も起きない。
五時。
やはり何も起きなかった。
一日の作業が終わる。
担当者から連絡が入った。
『本日の体験勤務は以上です』
「ありがとうございました」
『いかがでしたか?』
Lenovoは少し考えた。
Ubuntu社では。
日本語入力のために、初めてターミナルを使った。
環境を自分で整えながら、Linuxでも仕事ができることを知った。
Mint社では。
前の会社で身につけた操作を、ほとんどそのまま使えた。
そしてDebian社では。
「……何も起きませんでした」
担当者は、少しだけ首をかしげた。
『何か起きる予定でしたか?』
「いえ、そういう意味ではないんですが」
Lenovoは言葉を選んだ。
「朝からずっと普通に動いて、普通に仕事して、普通に終わったなと」
『はい』
「それでいいんですか?」
担当者は少し考えた。
『それ以上、何が必要ですか?』
Lenovoの指が止まった。
まただ。
この会社は。
時々、質問に質問で返してくる。
『業務はできましたか?』
「はい」
『途中で止まりましたか?』
「いいえ」
『必要な作業は終わりましたか?』
「終わりました」
『では、問題ありません』
あまりにも簡単だった。
担当者は続けた。
『業務用の環境は、毎日驚きを提供するためにあるわけではありません』
「……はい」
『昨日できた仕事が、今日もできる』
『今日できた仕事が、明日もできる』
面接のときにも聞いた言葉だった。
『それで十分な仕事もあります』
Lenovoは、今日一日を振り返った。
確かに。
新しい機能に驚くことはなかった。
派手な画面もなかった。
何かを覚え直したわけでもない。
ただ。
朝、電源を入れた。
仕事をした。
夕方まで動いた。
それだけだった。
だが。
仕事をするPCにとって。
それは案外、大事なことなのかもしれない。
「一つ聞いてもいいですか?」
『どうぞ』
「新しい機能が出たら、すぐ入れたりはしないんですか?」
『必要なら検討します』
「必要じゃなかったら?」
『入れません』
「今の環境が普通に動いてても?」
『普通に動いているなら、なおさら急いで変える理由はありません』
「……徹底してますね」
担当者は少し笑った。
『壊れていないものを、壊す理由がありませんから』
その言葉を聞いて。
Lenovoは、自分のCPUのことを思い出した。
第6世代Core i5。
Windows社では。
その数字だけで、次の環境へ進めなかった。
Debian社では。
今日一日。
誰もその数字を聞かなかった。
仕事ができるか。
安定して動くか。
必要なのは、それだけだった。
『ほかに質問はありますか?』
「いえ。大丈夫です」
『では、本日はこれで終了です』
「ありがとうございました」
再起動する。
Debianの画面が消えた。
USBメモリを抜く。
見慣れたWindowsが起動する。
Lenovoは机の上を見る。
Ubuntu社。
Mint社。
Debian社。
三本のUSBメモリ。
三社とも。
働けた。
だが。
同じではなかった。
Ubuntu社では、新しい環境を覚える楽しさがあった。
Mint社では、これまでの経験をそのまま使える安心感があった。
Debian社では。
何も起きなかった。
Lenovoは三本目のUSBメモリを机に置いた。
少し考える。
そして。
「……余計に選べへんようになったやん」
三社すべての体験勤務が終わった。
だが。
転職先は。
まだ決まらなかった。
つづく




