Chapter 01 「八つ当たり」
二月二八日
走っていた。
肺が酸素を求め、四肢が限界を訴えてなお、少女は走り続けた。
どこへ向かっているかなど、少女は知らない。元よりどこかへ向けた足取りではなかった。ただそうすることしか知らないように、喘ぐような息も絞めつけるような胸の痛みも抑えつけて走った。
――訳が分からない
少女の頭は、それでいっぱいだった。
追われているから逃げる。だが追われている理由が分からない。逃げろと言ってくれた人は、もう隣を走っていない。
後ろから聞こえてくる音。それは少女の日常ではあり得ないはずのものだった。
火薬の爆発音。鉄塊の風切り音。
それを知らないわけではない。ただ、少女にとっては物語の中の存在。だからこそ余計に、恐怖は増幅した。
それでも、そのことを認めるわけにはいかなかった。
恐怖を認めては止まってしまう。疲弊を知っては挫けてしまう。痛みを感じれば泣き出してしまう。疑問を持っては考えてしまう。悲しみを思い出せば、生きる気力がなくなってしまう。
走ることが手段なのか目的なのか、もはや分からなくなっていた。混乱する思考が頭を締め付け、最後にはその余裕もなくなった。
自分が外界とは切り離された錯覚。
穿たれた右肩も、痛みを発し忘れている。
まさしく機械になったかのような無意識の反復運動。
それがどうにもおかしくて、笑ってしまいそうで、
釣り上がった口が渇いた笑いを漏らした瞬間――
少女の疾走は、自身の限界を以て断たれることとなった。
「あまり手間取らせんじゃねえよ!」
足がもつれて、少女は倒れこんだ。
腕を棒に起き上がろうとした少女を、後ろから追いついた誰かが蹴り飛ばした。
「ッ――」
圧迫された肺は悲鳴を上げることすら許さず、代わりに口から真っ赤な血が漏れた。
それを拭うこともせず、少女は再び立ち上がろうと顔を上げる。
その額に、少女は冷たい感覚を覚えた。カチリ――という甲高い音、霞んだ視界には、鈍く光る銀色が見える。
その温度も、重さも、少女とはかけ離れたもののはずだった。そんなもの知らないまま、一生を全うするとばかり思っていた。
「おい。まだ殺すなよ」
「分かってるっつーの」
だが恐ろしくはない。新しく現れた男にも、その男のおかげで眼前から銃が退けられたことにも、茜は関心がなかった。
脳から分泌される興奮物質は、ただ逃げることだけを促している。どうすれば上手く隙を作ることができるかとばかり考えている。暴走した思考回路は加熱するばかりであった。
「良かったな。最後にまた母ちゃんと会えるってよ」
「――」
茜の目を覚ましたのは、その言葉だった。
自分が何を忘れていたのかを知った。何を捨て、引き換えに逃げていたかを痛感した。
おかしな話であるが、茜は今の今までそれを理解できていなかった。
「テメエで食い止めようが、娘が逃げられるわけじゃあるまいし。まあ焦ったけどな。時間が掛かっただけだ」
「お母さんは――あぅっ!」
叫ぶその前に、男に髪を掴まれて少しずつ引きずられる。
落ち着きを取り戻した頭は、至る箇所の痛みを告げ始めていた。髪を引かれる痛み、緊張し続ける筋肉の痛み――痛みが強すぎるせいか、右肩の弾痕部が麻痺していたのが少しの助けだった。
「安心しろ。まだ生きてる」
「まだ、な。そんなことに意味もないけどな」
片方の男は、そう言って笑う。もう一人の男も、大っぴらには出さないが笑んでいるように思えた。
「――なん……で……」
訳が分からない。誰に向けたわけでもない言葉は、誰の耳にも届かずに消える。
痛みも、蔑まれる悔しさも、不条理に対する怒りも、疑問と混ざって悲しみに変わった。八つ当たりすらできないこの状況で、少女は自棄になる他なかった。
痛い――。何が痛いのかすら忘れた。
涙を流している理由など、こうなってしまっては何の意味も持たない。
少女は絶望した。周りに人っ子一人いない、助けだって期待できない今、少女は絶望した。
少女は、絶望していた。
――不意に、髪を掴む力が離れた。
油断していた少女の頭は、地面に落下する。衝撃に目が覚めた少女は、状況把握のために顔を上げた。
見ると、人が増えていた。薄ぼけた視界の中で、三人の人影が舞っていた。
徐々に感覚が蘇る。怒声が聞こえる。ボヤけた像が明確な形を結ぶ。
それでも、理解するにはまだかかる。少女はまだ日常を脱しきれていなかった。
自分を追った二人の男。新たに現れた少年。銃声が二つ。少年の呟き。消える弾丸。
光景は嫌というほどに、遅々として流れる光景は嫌というほどに把握できる。
音も同じだ。呼吸や衣擦れに至るまでが耳元へ叩き込まれ、漏れる情報はない。
それでも、目の前の状況が理解できなかった。少女の常識からあまりにもかけ離れていた。
瞬間の出来事がスローモーションに感じられ、それでも振り返ってみれば一瞬の出来事。
二人の男が倒れ伏し、少年が立つ。その姿にようやく、少女の時間は正常を取り戻した。
「金桐 茜だな?」
名前を呼ばれた。
若い声だった。目付きが鋭く、体つきも成熟した様子があるが、どこか幼さが抜け切れていない少年だった。
「ギアの野人 衛悟だ。お前と……母親を助けて来いって言われたんだが、どこだ?」
「……え? ――あ、……」
疑問が頭の中で多く渦巻く。それでも、一つだけははっきりとした。
どうやら自分は助けられたらしい。その事実はようやく、茜の脳裏に浮上した。
「あ…………ああ――」
上手く声がでない茜に、少年が首をかしげる。
「とにかく、誰か迎えに来てもらって、お前だけでも送ってもらおう。母親の居場所はこいつらにでも聞くか」
少年は倒れている男の頭を転がした。
その言い振りからすると、どうやら殺してはいないらしい。
「あ、あのっ――!」
「ん?」
自分も、母親も助けてくれるらしい。
それでもどうしてか安心できなくて、茜は言わずにはいられなかった。
「助けて――ください……」
声が出きらなかった。疲労のせいもあるが、改めて口に出すことで胸が痛んだ。
「大丈夫だ。今から迎えを呼ぶ」
違う。茜は首を横に振った。
助かりたくないわけじゃない。全身の痛みで泣いてしまいたいほどだし、恐怖はもういらない。
しかし、どうしても嫌だった。今こうして一人で助けられた理由、それを思い返すと、どうしても許せなかった。
「お母さんを――」
元々の目的がそれらしいとはいえ、気が引ける言葉である。
危険らしい頼み。しかし少女には、縋るしか手段がなかった。
悔しくて、悔しくて、
その悔しさを吐き出すように、少女は、少年の腰にしがみつく。
「お母さんを、助けて下さい――!」
食いしばった歯は砕けそう。
か弱いくせに、少女は強くあろうと見せている。
自分は大丈夫だから、と――だけど、
頭に優しく載せられた手のひらは「無理はしなくていい」と言っているようで、
耐えられず、少女は涙を流した。




