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聖歌の響く街と、裏返りの波形  作者: あずきまんま


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第3話

逃げなければならない。


脳内で警告の鐘が荒々しく鳴り響いていた。


ユーリはベッドから身を起こし、床に足をつけようとした。


だが――。


「ぐッ……!?」


足に力が入らない。


それどころか、両足の感覚が著しく鈍麻していた。


ひざ下から爪先にかけて、まるで冷たい泥のなかに足を突っ込んでいるかのように重く、鈍い麻痺感覚が広がっている。


必死で視線を足元へ落とすと、靴の上から被さるように、床の木目から極めて細い肉色の糸のような菌糸群が伸び、足首を緩やかに絡め取っていた。


「な……んだ、これ……ッ!」


ユーリは手元のサイドテーブルにあった果物ナイフを掴み、狂ったように足元の肉糸を切り払った。


プチプチと生々しい手ごたえとともに嫌な臭気の体液が飛散し、足の自由がわずかに戻る。


この部屋の床すらも、すでに『生きて』いるのだ。


このままこの部屋にとどまれば、自分もまた朝を迎える頃には床と、そしてこの街と同化してしまう。


ユーリはドアへと駆け寄った。


救護所の長い廊下は薄暗く、どこか湿った生暖かさに満ちていた。


昼間あれほど優しく接してくれた看護師や修道女たちの姿は一人もなく、ただ壁のあちこちから「フシュー……フシュー……」という集団の重い呼気音だけが漏れ聞こえてくる。


外へ脱出するべく、ユーリは街の門を目指して走ろうとした。


しかし、街の至る所に敷き詰められた美しい白い石畳は、夜の闇の中で不自然に軟化し、一歩踏み出すたびに「ジュプ、ジュプ」と足首まで沈み込んだ。


門へ向かう通路は、昼間の記憶とはまるで異なる曲がりくねった迷路のようにうねり、どこへ進んでも中央の巨大な広場――あの『オルゴール塔』の前へと引き戻されてしまう。


(門へ行けない……! 街全体が、俺を逃がさないように呼吸している……!)


ユーリは荒い息を吐きながら、暗闇に聳え立つオルゴール塔を見上げ上げた。


白大理石で作られているはずの塔。


だが、夜の静寂の中で近くから見つめると、その表面は滑らかではなく、無数のしわと血管のような太い隆起がびっしりと浮き彫りになっていた。


塔の頂上から降り注ぐ天上のパイプオルガンの音色は、間近で聞くと耳孔を直接殴りつけられるような巨大な音圧となってユーリの鼓膜を震わせる。


逃げ道がないのなら、真実を暴くしかない。


あの音の発生源を潰すか、あるいはあの音が持つ知覚錯乱の構造を完全に暴かなければ、自分はこの狂った街の胃袋の中で永遠に消化され続けるだけだ。


ユーリは意を決し、オルゴール塔の重厚な大理石の扉に手をかけた。


扉は鍵もかかっておらず、ぬめりとした感触とともに無音で内側へ開いた。


塔の内部に足を踏み入れた瞬間、激しい腐敗臭と濃密な体温の渦がユーリを襲った。


「う……ぐッ……!」


あまりの臭気に吐き気を催し、ユーリは袖で口元を覆った。


そこにあったのは、階段でも、パイプオルガンの複雑な歯車機構でもなかった。


巨大な空洞。


塔の内壁全体を埋め尽くしていたのは、赤黒く蠢く無数の肉のくだだった。


太いものは大木ほどもあり、細いものは人間の血管のように蠢きながら、天井の闇の奥へと向かって束になって伸びている。


管の表面からは、透明で粘度の高い液体が滝のように滴り落ち、中央の深緑色のプールへと溜まっていた。


そして、その管のあちこちには――『人間』が埋め込まれていた。


「あ……あ……」


ユーリの喉から、声にならない悲鳴が漏れた。


行方不明になっていた旅人のマルクだった。


彼は胸から下が太い肉の管と完全に融着し、体幹をなしていた。


皮膚は白くふやけ、目も鼻も耳も粘膜によって半分塞がれている。


それなのに、彼の顔には恐ろしいほど穏やかで、幸福に満ちた笑みが張り付いていた。


マルクの喉仏が、ゴチ、ゴチと歪に跳ね上がる。


彼の開いたままの口から、あのパイプオルガンの美しい高音の一節が、プシューという空気音とともに噴き出していた。


マルクだけではない。


姿を消した他の旅人たち、そして街の住人たちの身体の一部が、塔の至る所で肉壁と融合し、巨大なオルガンの「管」の一部として空気を送り込むポンプの役割を果たされていたのだ。


彼らは殺されているのではない。


生かされたまま、脳を麻酔液で痺れさせられ、命と声を搾り取られながら、管を震わせる「リード」として利用されていた。


チュプ……ジュルリ……。


ゴチ……ゴチ……。


管が伸縮し、粘液が泡立ち、人間の肉体が引き絞られるたび、それが塔の空間で増幅され、あの透き通るような美しい『聖歌』へと変換されて街中に撒き散らされている。


これが、聖歌の正体。


神の祝福などではなかった。


この街全体に覆いかぶさる超巨大な捕食魔獣が、体内に取り込んだ獲物を暴れさせず、ゆっくりと体液で溶かして消化・吸収するための「生体麻酔の振動音」だったのだ。


(狂ってる……! こんなの、あまりにも……ッ!)


ユーリの存在に気づいたのか、塔の天井付近から、ぬらぬらと濡れた巨大な複眼のような器官がゆっくりと降りてきた。


無数の肉の管が一斉に蠢き、ユーリを包囲するように迫ってくる。


塔全体から発せられるパイプオルガンの音量が、爆音となってユーリの脳内へ直接叩きつけられた。


あはは……ユーリさん……おいで……。


ここはお前の帰る場所……痛みのない、永遠の天国……。


脳の奥に、甘くトロリとした声が直接流れ込んでくる。


意識が急速に白く染まりかける。


視界が歪み、恐怖すらも心地よい幸福感へと書き換えられそうになる。


足元の肉壁が滑らかにユーリの靴を飲み込み、膝まで達しようとしていた。


(負けるな……! 飲み込まれるな……ッ!)


ユーリは舌を強く噛み切った。


口内に広がる鮮血の鉄の味と激痛で、失われかけた正気を強引に繋ぎ止める。


ユーリは自身のスキル『音律解析』を、生まれて初めて限界を超えて解放した。


(音には、波がある……! どんなに美しい旋律でも、どんなに強大な魔導の音波でも、波形である以上は必ず『反対の位相』が存在する……!)


ユーリは両目を血走らせ、耳から届く聖歌の周波数を微細な単位で脳内に展開した。


捕食魔獣が発する知覚錯乱の周波数。


脳の認知を歪め、グチャグチャとした胃袋の中を「美しい天国の街」だと錯覚させている音の波形。


その全てを、完璧に解析しきる。


(消せ……! この狂った偽りの旋律を……俺の耳から、脳から、全て消し去れッ!!)


ユーリは体内の全魔力を鼓膜と聴覚神経へ集中させ、解析した波形と完全に真逆の位相を持つ音波ノイズキャンセリングを、自身の脳内で直接衝突させた。


パチン、と。


ユーリの頭の中で、何かが弾ける乾いた音がした。


次の瞬間。


世界から、あらゆる音楽が消え去った。



お読みいただきありがとうございました!


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