第4話
静寂が、世界を支配した。
耳鳴りのような無音。
脳内で直接生成した逆位相の波形が、麻痺の旋律を根底から相殺し消し去ったのだ。
「……あ……」
ユーリの口から、掠れた声が漏れた。
錯覚を補維持していた「音」が消えた瞬間、五感の全てを繋ぎ止めていた歪な魔法の糸がプツリと切れ、世界が凄まじい勢いで裏返っていった。
白大理石の美しい塔など、存在しなかった。
ユーリの視界に飛び込んできたのは、赤黒くうねり、黄緑色の胃液をボタボタと滴らせる巨大な肉壁の胎内だった。
「聖なる街アリア」などというものは、最初からどこにも無かったのだ。
何百年も前にこの巨大魔獣に呑み込まれた建造物の無残な残骸、漂流した瓦礫や骨格、そして半ば溶けた肉塊が層をなし、胃壁の粘液の上に歪な影を落としているに過ぎなかった。
そして――「親切な住民たち」。
「あぁ……あぁあ……っ!」
ユーリの喉から、血の混じった悲鳴が上がった。
塔の至る所、そして眼下の液溜まりに浮かぶ肉の塊。
そこに固着していたのは、皮膚がドロドロに溶け落ち、目球が爛れて鼻の削げ落ちた「人間だったものたち」だった。
彼らは腰から下、あるいは背中全体が胃壁の生体組織と不気味に溶け合い、融着していた。
消化液に苛まれ、生きたまま肉体を溶かされながらも、脳を麻酔の音で麻痺させられていたせいで痛みを感じることすら許されず、溶けた顔面に歪な空洞(口)を開けて喘いでいたのだ。
「ユーリ……さん……」
足元から声が聞こえ、ユーリは這うようにして視線を落とした。
そこにいたのは、白い修道服を着ていたはずのセシリアだった。
彼女の下半身は完全に胃壁の肉芽と一体化し、溶けた皮膚が赤紫色の体液となってダラダラと滴っていた。
彼女の顔面はなかば溶け落ちて顎の骨が露出し、片方の目球は糸を引いて頬へと垂れ下がっている。
それでも、彼女の口元だけは、あの狂気に満ちた「穏やかな笑顔」の形状を保とうと歪に引き攣っていた。
「どうして……音を、消してしまったの……?」
セシリアの溶けた唇から、漏れ出たのは声ではなかった。
彼女の露出した咽頭がゴチ、ゴチと鳴り、直接体液を吹き出す空気音。
音響錯覚を失ったユーリの耳には、彼女の言葉すらも、ただの肉の蠢動音として不快に響くだけだった。
「痛いでしょう……苦しいでしょう……? 音を聞いて……歌を聞いて頂戴……そうすれば、またあの綺麗な街に帰れるわ……また、みんなで楽しく暮らせるのよ……」
彼女が溶けかけた腕を伸ばし、ユーリの足へ縋りつこうとする。
その腕の皮膚もまた、ドロドロとした粘質度の高い液体へと崩れ落ちていく。
「いやだ……嫌だァァッ!!」
ユーリは狂ったように脚を押し戻そうとした。
だが、一歩も動かない。
(な……に……?)
ユーリは目を見開き、自身の足元を直視した。
彼の両足は――膝から下が完全に原形を留めておらず、緑色の消化液に浸かったまま、ドロドロの肉の粥へと溶け落ちていた。
そして、その溶けたユーリ自身の肉と皮膚が、足下の胃壁の肉芽と固く編み込まれ、太い血管となって体内へと根を張っていたのだ。
街に入ったその瞬間から。
あの美しい聖歌を聞き、痛みが消えたと感じたあの最初の瞬間から、ユーリの消化と融着はすでに始まっていたのだ。
「あ……が……ッ……!」
絶望のあまり、ユーリの胸の奥から激しい嘔吐感がこみ上げた。
口から吐き出されたのは、先ほどセシリアから与えられた白濁したスープ――ではなく、大量の黄緑色の胃液と、すでにユーリの胃内で粘膜へと根を張り始めていた「生の肉芽」の塊だった。
ユーリの脳の容量を超えた恐怖が、精神を内側から破壊していく。
(消せ……音を消し続けろ……! 騙されるな……ッ!)
ユーリは必死でノイズキャンセリングのスキルを維持しようとした。
だが、極限の恐怖と、両足を溶かされる圧倒的な激痛が、彼の集中力を無惨に散らしていく。
脳内で保たれていた反転波形が、ガタガタと崩れていく。
位相が、ズレる。
打ち消されていた「真の音」の隙間から、あの音が、再び漏れ出し始めた。
『……~♪』
天から舞い降りるような、透き通るパイプオルガンの高音。
重厚で、心を包み込むようなあたたかな低音。
美しい。
なんて、美しい聖歌なのだろう。
音色が耳孔を満たした瞬間、両足を灼き尽くしていた壮絶な激痛が、嘘のようにスッと引いていった。
溶けた両足の不快感も消え去る。
視界を覆っていたグロテスクな肉壁と半溶けの人間たちが、白い大理石の街並みと、優しく微笑む街の人々の姿へと、滑らかに上書きされていく。
「あ……あぁ……」
ユーリの口元から、力が抜けた。
セシリアが、美しい修道服を風になびかせ、天女のような笑顔でユーリの手を優しく握りしめていた。
「良かった……正気に戻られたのですね、ユーリさん」
「セシリア……さん……俺、なんだか……悪い夢を……」
「ええ、もう大丈夫ですよ。ここは聖なるアリア。私たちは皆、家族なのですから」
ユーリの胸の奥に、ぽかぽかと温かい幸福感が満ちていく。
もう、何も考える必要はなかった。
逃げる必要も、苦しむ必要もないのだ。
ふと見上げると、青空に聳え立つ白いオルゴール塔が、祝福の鐘を鳴らしていた。
ユーリは涙を流しながら、最高の笑顔を浮かべた。
そして、彼の喉仏がゴチ、ゴチと不自然に跳ね上がり、口から美しいパイプオルガンの一小節が、爽やかな風に乗って街中へと響き渡った。
(完)
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