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聖歌の響く街と、裏返りの波形  作者: あずきまんま


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第2話

救護所で三日間ほど静養したユーリは、すっかり怪我も癒え、アリアの街へ足を踏み出すことができた。


街並みはどこを切り取っても絵画のように美しかった。


白い石造りの建物が整然と立ち並び、石畳の小道には色鮮やかな花々が咲き乱れている。


すれ違う住民たちは誰もが優しく、見知らぬユーリに対しても穏やかな笑みを浮かべて挨拶を交わしてくれた。


「やあ、新しいお友達だね。怪我はもういいのかい?」


「ええ、すっかり良くなりました。本当に温かい街ですね」


「そうだろう、そうだろう。ここは神の祝福と、オルゴール塔の聖歌に守られた永遠の安らぎの街さ」


果物屋の店主が、瑞々しい赤いリンゴを一つユーリの手へ握らせてくれた。


お金を受け取ろうとしない店主に礼を言い、ユーリはその場でリンゴを齧る。


甘く爽やかな果汁が口いっぱいに広がった。


だが、咀嚼し、飲み込もうとしたその瞬間――ユーリの耳奥が、かすかな違和感を拾った。


グチ……ッ。


果肉を噛み砕く音に混じって、生肉の繊維を引きちぎるような、粘り気のある重い湿音しつおんが鼓膜を揺らした。


まるで、生きた軟組織を無理やり食いちぎっているかのような感触が、一瞬だけ舌の上に残る。


「……っ!?」


思わず吐きそうになり、ユーリは手元のリンゴを見つめた。


そこにあるのは、何の変哲もない鮮やかな赤いリンゴだ。虫食いすら存在しない。


(……なんだ? 今の音は……)


「どうしたんだい? 口に合わなかったかな」


果物屋の店主が首を傾げた。


ユーリは焦って首を振る。


「いいえ! すごく美味しいです……すみません、むせてしまって」


「そうかい。ゆっくり食べるといいよ。この街のものは何でも美味しいからね」


店主は満足そうに微笑んだ。


だが、ユーリはその店主の顔を凝視したまま、凍りついた。


店主の目だ。


店主は笑顔を浮かべ、ユーリと会話をしている。


しかし、彼が出会ってからこの五分間、店主は**一度も『まばたき』をしていない。**


見開かれた目は乾燥で濁ることもなく、まるで硝子玉のようにじっとユーリを見つめ続けている。


口元は親しげな弧を描いているのに、目元にはいっさいの感情の揺らぎがない。


不気味な違和感が、背筋をゆっくりと這い上がってくる。


ユーリは逃げるようにその場を離れ、街の広場へと歩を進めた。


広場の中央には、大きな噴水があり、周囲のベンチでは多くの人々が寛いでいた。


子供たちが笑いながら追いかけっこをし、老人たちが日向ぼっこをしながら談笑している。


一見すれば、誰もが羨む平和な日常の光景だった。


だが、一度生まれた恐怖の芽は、ユーリの観察力を異常なほど鋭利に研ぎ澄ませていた。


ユーリは広場のベンチに座り、周囲の人々を静かに観察した。


スキル『音律解析』を意識の表面に引き上げる。


耳を澄ませる。


街全体を包み込む、オルゴール塔からの聖歌。


パイプオルガンが奏でる荘厳で美しいメロディ。


しかし、その周波数を細かく分析していくと、おかしな点にぶつかった。


(音が……途切れていない)


どれほど優れた演奏者であっても、あるいは魔導仕掛けの自動演奏であっても、音の切り替わりにはコンマ数秒の減衰や呼吸が存在するはずだった。


だが、この聖歌にはそれが存在しない。


完全に継ぎ目のない「一定の波形」が、無限に循環している。


まるで、巨大な生体機具が吐き出す「脈動」そのものを音に変えているかのように。


そして、さらなる異常がユーリを襲った。


鐘の音が、ゴーンと街に響き渡った。


正午を告げる時刻だ。


その瞬間――広場にいた数百人の住民たちの動きが、ピタリと止まった。


子供たちが走る足を止め、老人たちが口を開けたまま固まり、街ゆく人々が全員、彫像のように石畳の上で静止した。


「……え……?」


ユーリは息を飲んだ。


誰も喋らない。誰も動かない。風の音すら消え去ったかのような静寂。


住民たちの顔は、全員がオルゴール塔の方向へと向けられている。


そして、彼らの見開かれた瞳は、光を失った魚のように空洞だった。


聖歌の旋律が、転調を迎える。


重厚な低音が街の空気を震わせた、その時だった。


ゴチ、ゴチ、ゴチ……。


不快な骨の軋み音が、周囲の全員の首元から一斉に湧き上がった。


ユーリは目を疑った。


住民たちの喉仏の下――鎖骨の間の皮膚が、不自然に丸く跳ね上がり、膨らんでいた。


まるで、皮膚の下に巨大な虫か球体でも蠢いているかのように、左右に歪に揺れている。


ヒュー……フシュー……。


全員が、寸分違わず完全に同一のタイミングで、喉の奥から深く長い息を吐き出した。


その呼気には、かすかに甘くえた、有機物の腐敗臭が混ざっていた。


(な……なんだ……これ……ッ!?)


ユーリは恐怖で全身の血が引いていくのを感じた。


自分の胸を強く押さえる。


ユーリ自身の心臓は、恐怖で早鐘のように「ドックン、ドックン」と不規則に脈打っている。


しかし、周囲の住民たちの胸元から聞こえる鼓動は、違っていた。


ト……ト……ト……ト……。


全員の心拍数が、完全に同調している。


一人ひとりの個別の命の鼓動ではない。


街全体が、たった一つの巨大な「何か」の心拍に合わせて、全員の血を巡らせているかのような、完璧で無機質な同調音。


転調が終わり、聖歌が元の穏やかな旋律に戻ると、住民たちは何事もなかったかのように動き出した。


「あはは! 待ってよー!」


子供たちが再び走り出し、老人たちは笑顔で会話を再開する。


さっきまでの狂気的な静止など、最初から存在しなかったかのように。


ユーリは激しい眩暈に襲われ、ベンチの肘掛けを強く握りしめた。


指先が震えて止まらない。


(狂ってる……この街は、おかしい……!)


その日の夜、救護所に戻ったユーリは、セシリアが運んできた夕食に手をつけることができなかった。


パンと、白濁した濃厚な肉スープ。


昼間の出来事が脳裏に焼き付き、食べ物を見るだけで吐き気がこみ上げてくる。


「ユーリさん、お食事を残されるのですか?」


部屋の隅に立っていたセシリアが、首を傾げて尋ねてきた。


ろうそくの小さな炎が、彼女の美しい顔半分を暗い影で覆っている。


「……すみません、セシリアさん。少し胸がやけてしまって」


「まあ、それは心配ですね。このスープは、聖歌の恵みを受けた特別な肉を使っているのですよ。お体にとっても良いのです」


セシリアは優しく笑いながら、ベッドの脇まで歩み寄ってきた。


そして、スープの入った皿を引き寄せると、匙ですくってユーリの口元へと差し出した。


「さあ、一口だけでも召し上がってくださいな。元気を出していただかないと、街の皆様も悲しみますわ」


「いえ……本当に、今は結構です……」


「だめですよ。残すなんて、神様とオルゴール塔への不敬になってしまいます」


セシリアの口調は穏やかだった。


だが、その目は一切笑っていなかった。


まばたきひとつせず、すくったスープをユーリの唇にしつこく押し当ててくる。


断り切れない圧迫感に押され、ユーリはやむなく口を開き、スープを一口飲んだ。


トロリとした濃厚な旨味が広がった。


しかし、喉を落ちていく際、ユーリの耳奥に、あの不快な音が再び響いた。


ニュルッ……ジュプ、ジュプ……。


スープの中に溶け込んでいた小片が、ユーリの咽頭いんとうの粘膜に触れた瞬間、微かに「蠢いた」感覚がした。


それは煮込まれた肉などではない。


生きている細胞が、ユーリの体内に取り込まれまいと足掻き、しがみついてくるような、生々しい触感と音。


「ぐッ……!?」


ユーリはたまらず吐き出しそうになり、口を手で強く押さえた。


必死で喉の奥へと押し込む。胃の中に溜まったスープが、重く冷たく居座った。


「ふふ、美味しいでしょう?」


セシリアは満足そうに微笑み、空になった匙を戻した。


「そういえば……セシリアさん」


ユーリは息を整えながら、必死で声を絞り出した。


この街の違和感を、これ以上一人で抱え続けることは限界だった。


「この街に、俺より少し前に逃げ込んできた『若い男の旅人』がいませんでしたか? 黒い髪で、肩に傷を負っていた……」


ユーリは、壊滅した旅団の中で自分より先に街の方角へ逃げ延びたはずの青年・マルクのことを思い出していた。


街に入った直後、救護所の看護師たちが「他にも生存者がいた」と話していたのを聞いていたのだ。


だが、街のどこを探しても彼の姿は見当たらなかった。


セシリアは匙を置く手を止め、ゆっくりとユーリを見つめ返した。


「マルクさんのことですね」


「知っているんですか!? 彼は今、どこに……?」


「ああ、心配いりませんわ」


セシリアの唇が、ぐにぐにと不自然に横へ広がった。


まるで、皮膚の下の肉が引っ張られているかのような、歪な笑み。


「彼はもう、**この街と一つになりました**。この街の優しさに包まれて、永遠の幸福を手に入れたのです」


「一つに……? それは、どういう意味……」


「とても素晴らしいことですよ。彼も最初は怯えていらっしゃいましたけれど、聖歌を深く聞き入れ、街の恵みを口にするうちに、すっかり打ち解けられましたわ。今では、オルゴール塔のすぐそばで、街の一部として穏やかに眠っておられます」


セシリアの言葉には、人間の会話としての「論理」が欠落していた。


だが、彼女自身はそれを心底から美しいことだと信じ切っているような、絶対的な狂気が宿っていた。


「さあ、ユーリさんも早く休んでくださいね。明日には、もっと聖歌が体に馴染みますから」


セシリアはトレイを持ち上げると、静かな足取りで部屋を出て行った。


パタン、とドアが閉まる。


一人残されたユーリは、全身から吹き出す冷や汗を拭うこともできず、暗闇の中で立ち尽くした。


体内で、先ほど飲んだスープが、ズキリと重く脈打った気がした。


(逃げなきゃ……)


本能が叫んでいた。


この街は天国などではない。


自分たちの理解が及ばない、恐ろしい「何か」の罠だ。


ユーリは窓に駆け寄り、外の暗闇を見下ろした。


静まり返った白い街並み。


その中央に聳え立つ、オルゴール塔。


夜の静寂しじまの中、塔から発せられる美しいパイプオルガンの音色は、昼間よりもいっそう鮮明に響いていた。


ユーリはスキル『音律解析』を極限まで研ぎ澄まし、耳を澄ませた。


澄み渡る高音。


重厚な低音。


その旋律の「奥」――音が反響する背景の音空間へ、意識を集中させる。


すると。


美しい音楽のヴェールが、一枚一枚剥がれ落ちていくように、別の「音」がユーリの脳内に直接届き始めた。


ドポ……ドポ……。


重く粘り気のある体液が、巨大な管の中を逆流する音。


グチャ……ジュルリ……。


濡れた肉の塊が、巨大な力で押し潰され、擦れ合う音。


そして――。


ア……あ……助け……て……。


お母さん……痛い……熱いよ……。


聖歌の旋律と旋律の隙間から、何千、何万という人間の「声」が、ノイズのように細かく刻まれ、混ざり合って響いていた。


それは悲鳴であり、絶叫であり、絶望の呻き声だった。


その叫び声すらも、あの美しいパイプオルガンの音色に変換され、街中に散布されている。


「ひ……っ……!?」


ユーリは両耳を強く塞ぎ、床に倒れ込んだ。


あの聖歌は、街を守る祈りなどではない。


人々の悲鳴を覆い隠し、脳を痺れさせるための「狂気のノイズ」だったのだ。


床に伏したユーリの耳に、木造の床板を通り抜けて、下から「音」が届いた。


ト……ト……ト……ト……。


街中の住民たちが、地下で、あるいは建物の陰で、完全に同調した心拍数を打ち鳴らしている。


そして、その拍動は、少しずつ、少しずつ、ユーリ自身の心臓のテンポへとも侵食を始めていた。


自分の胸の鼓動が、勝手に遅くなり、彼らの音へと引きずられていく。


(だめだ……追いつかれる……耳を、意識を乗っ取られる……!)


ユーリは歯を食いしばり、必死で自分の手首の脈を握りしめた。


夜の闇の中、オルゴール塔は静かに、ただ美しく、呪いの旋律を奏で続けていた。




お読みいただきありがとうございました!


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