第1話
冷たい雨の匂いと、腐敗した草木の臭気が鼻をついた。
「……はぁ、はぁ……ッ」
ユーリは泥にまみれた右足をひきずりながら、濡れた岩肌にすがるようにして体を預けた。
太ももに深く刻まれた爪痕からは、今も赤黒い血が流れ落ち、石畳を汚している。
視界の端で、薄暗い森の奥から立ち上る黒煙が見えた。
ほんの数時間前まで彼が所属していた行商人の旅団は、突如現れた怪異の群れによって壊滅した。
仲間たちの悲鳴と、肉が引きちぎられる生々しい音が脳裏に焼き付いて離れない。
この異世界に転生してから三年間、ユーリは何の戦闘能力も持たないまま生きてきた。
彼に授けられたのは、ただ一つ。『音律解析』という、周囲の音の波形や周波数を微細にまで聞き分け、識別するだけの地味なスキルだった。
戦闘には何の役にも立たないその耳が、今も遠くで蠢く魔物たちの骨の擦れ合う音を拾い上げ、ユーリの恐怖を跳ね上がらせていた。
(追いつかれる……ここで、終わるのか……?)
呼吸が浅くなり、視界が急速に狭まっていく。
死の冷気が足元から這い上がってきたその時だった。
風に乗って、可憐な音が届いた。
パイプオルガンだろうか。
どこか遠くから、透き通るような美しい旋律が流れ込んできた。
聖歌だった。
重厚な低音と、天から舞い降りるような繊細な高音が織りなすその音色は、雨音を優しく押し返し、荒んだ空気を一瞬で浄化していくようだった。
「……音……?」
ユーリがかすれた声を漏らし、音の届く方角へ視線を向けると、霧の向こうに白く輝く巨大な城壁が姿を現した。
城塞都市『アリア』。
どんな猛悪な魔物も立ち入ることができず、清廉な聖歌によって守られているという噂の街だった。
ユーリは残された力を振り絞り、吸い寄せられるようにその門へと足を進めた。
重厚な鉄の門をくぐり抜けた瞬間、全身を包み込んだのは、温かな光と甘い花々の香りだった。
そして何より、耳を包み込む聖歌の響きが、よりいっそう鮮明になった。
「あらあら、大変! 大怪我をしているわ!」
「おい、しっかりしろ! すぐに聖堂の救護所へ運ぶんだ!」
意識が薄れかけるユーリの視界に、白い衣服を纏った街の人々の姿が映った。
彼らの表情はどこまでも優しく、慈愛に満ちていた。
駆け寄ってきた男性の手がユーリの肩に触れる。
その瞬間、不思議なことが起きた。
絶え間なく激痛を主張していた右足の痛みが、すっと引いていったのだ。
(傷が……痛まない……?)
耳元で流れる聖歌の旋律が、頭の奥をじんわりと痺れさせていく。
まるで上質な酒に酔ったときのような、ぽかぽかと温かい幸福感が胸の底から湧き上がってくる。
ユーリは緊張の糸が切れ、優しく抱きかかえられながら、深い眠りへと落ちていった。
次に目を覚ました時、ユーリは清潔なベッドの上に横たわっていた。
柔らかな陽光が窓から差し込み、部屋にはほのかに薔薇に似た香りが漂っている。
「お目覚めですか?」
澄んだ声とともに、白い修道服を着た若い女性が微笑みかけながら歩み寄ってきた。
透き通るような白い肌と、整った顔立ちをした美しい女性だった。
「ここは……?」
「聖都アリアの救護所ですよ。貴方は街の外で倒れていたのです。もう大丈夫、この街はオルゴール塔から流れる聖なる祈りの音色に守られていますから」
女性は手に持った木製のトレーをサイドテーブルに置いた。
そこには、温かなスープと焼き立てのパンが乗せられている。
「お腹が空いているでしょう。召し上がってくださいね」
「……ありがとうございます。俺は、ユーリと言います」
「私はセシリアと申します。ユーリさん、お体のお怪我はもう痛みますか?」
ユーリはブランケットをめくり、自分の右足を確認した。
あんなに深かった爪痕は綺麗なピンク色の皮膚で覆われており、痛みは全く感じられなかった。
「いえ……驚きました。こんなに早く治るなんて」
「ふふ、聖歌のおかげですわ。あの音色は、私たちの心と体を癒やし、邪悪なものを祓ってくれる神の祝福なのです」
セシリアは窓の外を仰ぎ見た。
窓からは、街の中央にそびえ立つ真っ白な大理石の塔――『オルゴール塔』が見えた。
塔の頂上からは、絶え間なくあの美しいパイプオルガンの聖歌が街全体へと降り注ぎ、空気そのものを優しく揺らしている。
ユーリもまた、その音色に耳を澄ませた。
心身が満たされるような、深い安心感。
だが、ユーリがその旋律をじっくりと聞き込もうとした、まさにその時だった。
ユーリの『音律解析』スキルが、無意識のうちに作動した。
脳内で、響き渡る聖歌の音波が、緻密な周波数データとして細かく分解されていく。
美しい高音。豊かな中音。深みのある低音。
その完璧なハーモニーの「隙間」――極めて微小な音の断層に、異物のようなノイズが混ざり込んでいるのを、ユーリの耳が拾い上げた。
チュプ……。
ニュルリ……。
(……え?)
ユーリの背筋に、冷たいものが走った。
それは、オルガンの管から発せられる音ではなかった。
もっと湿り気を帯びた、生々しい音。
まるで、粘質度の高い液体の中で、粘膜と肉の塊が擦れ合っているような、不快な蠢動音だった。
「ユーリさん? どうなさったのですか?」
セシリアが首をかしげ、ユーリの顔を覗き込んできた。
その瞳はどこまでも優しく、心配そうに揺れている。
「あ……いえ。少し、不思議な音が聞こえた気がして」
「不思議な音?」
「ええ。聖歌の音の裏で、何か……重くて湿ったような音が混ざっていませんでしたか?」
ユーリが尋ねると、セシリアは一瞬だけピタリと動作を止めた。
ほんのわずかな、コンマ数秒の間。
そして次の瞬間、彼女はさっきと全く同じ、完璧な笑顔を浮かべて首を振った。
「まあ、ユーリさんたら。疲れていらっしゃるのね。この街に流れているのは、聖なるオルゴールの音色だけですよ」
「そう……ですよね。すみません、気のせいだったみたいです」
ユーリは苦笑いを浮かべ、差し出されたスープの匙をとった。
だが、セシリアが立ち去り、部屋に一人残されたあとも、ユーリの耳奥にはあの不快な音が残っていた。
チュプ、ニュルリ……。
美しい天上の旋律の裏で、何かが静かに、脈打つように蠢いている。
その音を聞くたび、足元の皮膚がゾワリと粟立つのを、ユーリは抑えることができなかった。
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