第四話:夕刻——共犯者の産声
陽光が血のような朱色に染まり、家々の影が長く伸びて街を侵食し始める頃、私の馬車はヴィンセント伯爵家の重厚な門を潜った。
車窓から眺める庭園は、一点の乱れもなく整えられている。それは、この国の貴族社会が尊ぶ「秩序」そのものだった。だが、今の私には、その整然とした美しさが、息の詰まるような巨大な標本箱に見えてならない。
案内されたのは、邸の最奥にある私的な図書室だった。
扉が開くと、古い紙と革表紙、そして微かな白檀の香りが鼻腔を突く。壁一面を埋め尽くす書架は、数世紀にわたるヴィンセント家の知性の集積だが、その大半は「男たちの教養」を飾るための装飾に過ぎない。
その静寂の中心に、エレナ・ヴィンセントは立っていた。
「……お呼び立てして申し訳ありません、アルフレッド閣下」
彼女の声は、昨夜の夜会での震えるような響きを脱ぎ捨てていた。
装いは質素な室内着の上から重厚なショールを羽織っただけ。夜会の煌びやかなドレスという「武装」を解いた彼女の姿は、ひどく脆く、同時に剥き出しの刃のような鋭利さを帯びていた。
「返事が必要な手紙だったからね。……昨夜の私の言葉、まだ君の喉元に突き刺さっているのかい?」
私は、主人のように図書室の安楽椅子へ腰を下ろした。アルフレッドとしての優雅な所作。だが、その瞳に宿した冷徹さは、前世でターゲットを追い詰める際に使った「殺し屋」のそれだ。
エレナは一瞬、言葉を詰まらせた。だが、彼女は視線を逸らさなかった。
これまでの彼女なら、身分ある令嬢として、あるいは「完璧な婚約者」を演じるマリオネットとして、羞恥に顔を染めて俯いていただろう。しかし今の彼女の瞳には、昏い炎が灯っている。
「突き刺さっているどころか、私の全身を切り刻んでおりますわ。……閣下、貴方は仰いました。『エスコートという名の鎖を、一生慈しんで生きるつもりか』と。あの瞬間、私は初めて、自分が立っている場所が、愛に満ちた庭園ではなく、底なしの泥沼であることを理解したのです」
彼女は一歩、また一歩と、私に歩み寄る。
かつての私、娼婦だった「ルナ」の記憶が呼び覚まされる。男たちに媚び、その腕の中で「守られている」振りをしながら、その実、喉元にナイフを突き立てる機会を伺っていたあの頃。
エレナの今の歩みは、それに似ている。だが、彼女のそれは欺瞞ではない。己を縛り付けるシステムそのものへの、無意識の反逆だ。
「昨夜、一睡もできずに考えました。なぜ、これほどの富と地位を約束された私が、あの方々の笑顔を思い出すたびに反吐が出るのか。なぜ、貴方のあのような残酷な言葉に、救いを感じてしまったのか……」
彼女は私の膝元で崩れ落ちるように跪いた。それは服従のポーズではない。祈り、あるいは呪いを分かち合おうとする儀式だ。
「閣下……いえ、アルフレッド様。貴方は、私を侮辱するためにあの言葉を吐かれたのではありませんね? 貴方もまた、この『完璧な世界』という名の檻の異常さに、吐き気を催していらっしゃる。……違いますか?」
「……フフ、ハハハハ!」
私は堪えきれず、声を上げて笑った。アルフレッドの低い、魅力的なバリトンが図書室の天井に反響する。
驚いた。実に見事な誤算だ。
私は彼女をただの「憐れな犠牲者」として揺さぶったつもりだった。だが、彼女はその揺さぶりの中で、私の中にある「ルナ」の根源的な憎悪に触れてしまったのだ。
「面白い。実に面白いよ、エレナ。君は私が思っていた以上に、救いようのない『不適合者』らしい」
私は椅子の背から身を乗り出し、彼女の顎を指先で持ち上げた。
至近距離で見つめ合う。私の指先に伝わる彼女の肌は熱く、拍動は激しい。
「いいかい、エレナ。私は君を救いに来た白馬の王子様じゃない。私は、この腐った構造を内側から食い破るために、最も効率的な『場所』を奪っただけの侵入者だ。聖者どころか、君を最も深い地獄へ案内する悪魔かもしれないんだよ?」
「……構いません」
エレナの瞳に、歓喜に近い涙が溜まる。
「何も知らずに温かな檻で飼い殺されるくらいなら、貴方と共に、凍てつく荒野で血を流しながら生きたい。……私はもう、自分の無知に安らぐことはできないのです。貴方が私の目に、見てはいけない真実を見せてしまったから」
彼女は私の手に、自らの手を重ねた。
その瞬間、私は衝撃を受けた。
前世の娼婦時代、男たちの手は常に何かを奪うためのものだった。殺し屋時代、私の手は命を絶つためのものだった。
だが、今、エレナが重ねた手の感触には、奪うでも奪われるでもない、「共有」の意志があった。
男であることは、魔法だ。私はこの肉体と立場を使い、男たちが築き上げた城壁を内側から解体するつもりだった。だが、その「一人きりの戦争」に、今、最初の共犯者が現れた。
「……いいだろう。なら、まずはその淑女の仮面を捨てなさい。君がこれから歩む道には、ドレスの裾を汚さぬような甘い場所はどこにもない」
私は彼女の耳元に、呪いのように甘く囁いた。
「明日から、君に『世界のハッキング方法』を教える。数字の読み方、情報の殺し方、そして男たちの自尊心という名の急所の突き方を。……君を、この国で最も美しく、最も恐ろしい『毒婦』に仕立て上げてあげよう」
エレナは深く、深く頷いた。
彼女が私に向ける瞳は、もはや恋慕などという生温いものではない。それは、同じ地獄を共有する者への、狂気じみた連帯感だ。
図書室の外では、完全に陽が落ち、深い夜が幕を開けようとしていた。
かつて私を死に追いやったこの世界。その中心で、今、一人の令嬢が産声を上げた。
それは、古い秩序の終わりを告げる、静かな、しかし決定的な破滅の鐘の音だった。
「さあ、立ちなさい。共犯者の夜は長いよ」
私は彼女を抱き起こし、闇に包まれた図書室の中で、最初の一歩を踏み出した。




