第三話:午後——紙上の支配者と、盲目の男たち
午前中の激しい鍛錬を終え、汗を流して身なりを整えた私は、公爵家の執務室へと足を向けた。
扉を開ければ、そこは静寂とインクの香りが支配する戦場だ。巨大な机の上には、高さ数インチにまで積み上がった書類の山が私を待ち受けていた。
かつて、路地裏で「ルナ」として生きていた頃、私の一日の価値は極めて単純で、残酷な計算式で成り立っていた。ベッドの上で、獣のような男たちの機嫌を損ねないよう、細心の注意を払って身体を差し出す。その見返りとして手渡される、数枚の汚れた銀貨。それが私の生命線のすべてだった。
だが、今の私はどうだ。
座り心地の良い革張りの椅子に深く腰掛け、重厚な万年筆を手にする。この金色のペン先を一滑りさせるだけで、数千人の生活が激変し、あるいは一つの村の存続が決定する。
「……この灌漑事業の予算を二割削れ。その余剰分はすべて、領内にある女性向けの職業訓練所と、彼女たちが自立するための小口融資基金に回す」
私の淡々とした指示に、隣に控えていた老齢の侍従が目を見開き、震える声で異を唱えた。
「閣下、しかしそれでは地主たちが黙っておりません。彼らは水利権を盾に、既に利権を分け合う算段を立てております。反対勢力を刺激するのは……」
「地主たちには『次期公爵による特別な恩赦』という名目の、中身のない空手形でも握らせておけ。男という生き物は、目の前の実利よりも、将来得られるかもしれない『名誉』や『序列』という名の甘い餌を与えておけば、案外容易く現在の実利を差し出すものだ。彼らの虚栄心を満足させる勲章の一つでも捏造してやればいい」
侍従は戸惑い、何かを言いかけようとしたが、私の氷のような視線に射抜かれると、深く頭を下げて退出していった。
公爵の跡取りという立場は、実に奇妙な「魔法の杖」だ。
もし私が女の姿で同じ主張をすれば、「現実を知らぬ無知な慈悲」や「感情的なヒステリー」として即座に切り捨てられただろう。だが、アルフレッドという「男の皮」を被って断言すれば、それは「冷徹な計算に基づく先見の明ある政治的決断」へと勝手に変換される。私はこの、不公平極まりない歪んだシステムを、一片の罪悪感もなく、むしろ冷酷なまでの合理性を持って使い倒していた。
夕刻前、私は着替えて紳士社交クラブへと足を運んだ。
そこは、最高級の葉巻の煙、そして独りよがりの優越感に包まれた空間だ。この国の特権階級の男たちが、自分たちの「正しさ」を互いに確認し合い、強化し合うための聖域。
「やあ、アルフレッド! 昨夜のパーティーでの『ペット』の話、実に君らしくて愉快だったよ。女たちの本質をあそこまで残酷に射抜くとは、さすがは我らの若きリーダーだ」
一人の若手貴族が、琥珀色のブランデーが揺れるグラスを掲げ、心底楽しそうに笑いかけてくる。周囲にいた男たちも、まるで優れた喜劇を鑑賞した後のような、陶酔した面持ちで頷き合っていた。
「愉快、か。……君たちは本当に、自分たちが踏みしめている大地のすぐ下に、どれだけの女たちの死体が埋まっているかを知らないんだな」
私はソファーの背もたれに身を預け、優雅に脚を組みながら、彼らを憐れむように冷ややかに見つめた。
「おや、どういう意味だい? 冗談が過ぎるよ」
「女を『守るべき弱者』、あるいは『愛でるべき花』だと定義することで、君たちは彼女たちの『可能性』という名の翼を、一枚ずつ丁寧に、そして慈悲深く毟り取っているのだと言っているのだ。……自分が残酷な加害者であるという自覚すら持てぬほどに、君たちはこの腐った特権という名の毒に、骨の髄まで侵されている」
一瞬、場に冷ややかな静寂が走った。男たちの笑い顔が凍りつき、空気が緊張に震える。
だが、その沈黙は長くは続かなかった。
次の瞬間、彼らは感極まったような、熱狂的な溜息を漏らしたのだ。
「……素晴らしい! その鋭すぎる皮肉、冷徹なまでの自己批判! まさに君は、我々凡俗とは見えている地平が違う。あえて自らを悪役の立ち位置に置き、貴族社会の欺瞞を突くその高潔さ……。アルフレッド、君のその『冷たさ』こそが、停滞したこの帝国を導く真の灯火になるだろう!」
私は内心で、激しい嘔吐感を覚えた。
私が彼らの「罪」を、その「無能」と「傲慢」を、剥き出しの言葉で指弾し、侮辱しても、彼らはそれを「高貴な男による知的な嗜み」や「洗練された哲学」として勝手に解釈し、吸収してしまう。
真実を叫べば叫ぶほど、皮肉を重ねれば重ねるほど、彼らは私をカリスマとして崇拝し、私の地位はより盤石なものになっていく。
なんと救いようのない、滑稽な喜劇だろうか。
「……失礼。少しばかり、ここの空気は澱みすぎているようだ」
私は一口もつけていないグラスをサイドテーブルに置き、無表情に席を立った。
クラブを去る私の背中には、男たちの熱狂的な賞賛の声が浴びせられる。それはまるで見えない泥のように私の背中に纏わりつき、不快な感触を残した。
迎えの馬車に乗り込むと、私はようやく人心地ついた。
ポケットから、昼間に届いたエレナの手紙を取り出す。封を切る指先がわずかに震えた。
男たちの盲目で空虚な賞賛よりも、昨夜、私の言葉に戦慄し、絶望に瞳を揺らしていた彼女の姿の方が、今の私にはずっと「本物」であり、価値あるものに感じられた。
「さあ、エレナ。君は私の言葉の中に、地獄を見たのか。それとも、その先にあるはずの荒野を見たのかい?」
馬車は夕闇を切り裂くようにして、彼女の待つ屋敷へと走り始めた。
窓の外、沈みゆく夕陽が、今日という「偽りの一日」の終わりを告げようとしていた。




