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第二話:午前——支配者の呼吸

 父との、あの胃の腑が凍り付くような朝食の儀式を終えた私は、重厚なマホガニーの扉を閉ざし、自室へと戻った。

 待機していた老練な侍従が、音もなく私の着替えを始める。

 かつての私なら、男の服を脱がせるのは仕事の一部だった。脂ぎった指、酒臭い吐息、そして一方的に押し付けられる欲望の対価として、数枚の薄汚れた銀貨を受け取る。それが世界のすべてだった。

 だが今は、指先一つ動かさずとも、最高級のシルクと仕立ての良いウールが私の体を包み込んでいく。鏡の中に立つのは、銀の刺繍が施された訓練着を纏う、若き獅子の如きアルフレッドだ。


「……ふん」


 鼻で笑う。鏡の中の美青年も、同時に口角を吊り上げた。この完璧な「造形物」のなかに、路地裏で泥を啜っていた娼婦の魂が宿っているなど、誰が想像できようか。私は侍従が差し出した革の手袋を嵌め、拳を握り締めた。掌に伝わる確かな反発。この肉体は、私の意志を裏切らない。


 屋敷の裏手に広がる広大な練兵場へ足を踏み入れると、鋭く冷え切った朝気が肌を刺した。

 そこには、ヴァン・クロムウェル家が誇る私兵騎士団の精鋭たちが、一糸乱れぬ隊列で整列していた。私の姿を認めた瞬間、場に緊張が走る。


「アルフレッド様、お見えです!」


 教官の号令。直後、数十組の屈強な男たちの視線が一斉に私へと突き刺さった。

 前世の記憶が、一瞬だけ背筋を駆け抜ける。路地裏において、男たちのこうした視線は「暴力の予兆」以外の何物でもなかった。品定め、性的な好奇、あるいは一方的な加害の意志。その気配を感じた瞬間、私は即座に逃げ場を探し、ナイフの柄を握り、自らを殺してやり過ごす術を選んできた。


 だが、今はどうだ。

 彼らの瞳の奥にあるのは、純然たる畏怖。そして、ヴァン・クロムウェルの血筋に対する、犬のような絶対的な服従だ。私は逃げる必要などない。ただそこに立っているだけで、彼らの生存権を握る神として君臨している。


「今日は実戦形式で頼む。三人、同時に来い」


 私が上着を脱ぎ捨て、訓練用の木剣を手に取ると、場は氷を打ったように静まり返った。

 騎士たちが顔を見合わせる。逡巡。公爵家の嫡男を傷つけることへの恐怖だろう。私はそれを、冷徹な笑みで一蹴した。


「手加減は無用だ。私が無能だと知られれば、困るのは君たちの方だろう?」


 促された三人の騎士が、ようやく覚悟を決めたように一歩前へ出た。

 前世の私は、錆びたナイフをスカートの下に隠し、男の油断を突いて喉笛を掻き切るしかなかった。非力な女の肉体は、生存においてそれ自体が呪いであり、ハンデだった。正面から戦えば、骨を砕かれ、蹂躙されるのが常識だったのだ。


 だが、このアルフレッドの肉体は、奇跡そのものだ。

 長く、しなやかな四肢。爆発的な筋力。そして、公爵家の英才教育が骨の髄まで叩き込んだ、一切の無駄を削ぎ落とした剣理。


「……ッ!」


 三人が同時に踏み込んでくる。

 一人は正面から、二人は左右から。完璧な包囲網。

 私は笑いを噛み殺しながら、その動きを「殺し屋」の視線で解体した。

 

 正面の男が振り下ろす剛剣。重い。だが、遅すぎる。

 私は最小限の動きでその太刀筋をかわすと、そのまま彼の懐へと滑り込んだ。前世ならここで毒を塗った針を刺しているところだが、今は木剣の柄で十分だ。その勢いを利用して、二人目の騎士の鳩尾を正確に突き通す。

「ぐっ……!」

 一人が崩れ落ちる。三人目が驚愕に目を見開き、反射的に剣を横に薙いだが、私の体はすでにその死角へと移動していた。

 

 空を斬った男の首筋に、冷たい木剣の感触が添えられる。

 わずか数合。練兵場に、重い沈黙が降りた。


「死んだよ」


 私はアルフレッドの低い、魅力的な声で、囁くように告げた。

「前世の私なら、今ので君の頚動脈を裂いていた。反応が遅すぎる。死体は言い訳をしないぞ」


 一瞬の沈黙ののち、騎士たちが乾いた笑い声を上げた。彼らにとって、今の言葉は「若き天才による、ストイックな戒め」に聞こえたのだろう。


「ははは! 参りましたな。相変わらず手厳しい!」

「まるで数多の戦場を潜り抜けてきた、老練な兵士と対峙している気分でしたよ。アルフレッド様、貴方はやはり我らの王だ」


 彼らは、何一つ知らない。

 私が本当に「戦場」で生きてきたことを。そして、私が今振るった暴力が、彼らが愛でる騎士道などという綺麗なものではなく、生き残るために泥の中で培った「殺しの技術」の流用であることを。

 男の肉体を得たことで、私は「暴力」を隠す必要がなくなった。むしろ、振るえば振るうほど、磨けば磨くほど、それは『次期公爵に相応しい勇猛さ』として称賛され、私の権威を強固なものにしていく。


 暴力の行使が、称賛に変わる。

 この歪んだ快感は、かつての私を痛めつけた男たちが享受していたものと同じだろうか。


 訓練を終え、差し出された真っ白なタオルで、首筋に流れる汗を拭う。

 侍従が恭しく歩み寄り、銀のトレイを差し出した。そこには、上質な羊皮紙と、見覚えのある繊細な封蝋が施された一通の手紙が載っている。


「エレナ令嬢より、至急の親展にございます」


 ヴィンセント家の紋章を見つめながら、私は唇の端をゆっくりと、残酷なまでに吊り上げた。

 昨夜、夜会の片隅で彼女に流し込んだ毒。

 「貴女はペットに過ぎない」という剥き出しの真実が、どうやら彼女の平穏な精神を食い破り、その核心まで回りきったらしい。


「午後の決済は急ぎで終わらせる。……少しばかり、予定より早く動く必要がありそうだ」


 手紙を懐にしまい、私は練兵場を後にした。

 私の背後で、騎士たちが再び畏怖に満ちた礼を捧げる。

 彼らの「支配者」として、そしてエレナをこの檻から解き放つ「悪魔」として。

 

 さて、午後の「仕事」の時間だ。

 男という特権のチケットは、まだまだ使い道がある。

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