第五話:深夜——鏡と日記、あるいは私という女
深夜二時。ヴァン・クロムウェル公爵邸の回廊は、冷え切った静寂に支配されていた。
等間隔に配置された燭台の火はすでに落とされ、窓から差し込む月光だけが、磨き抜かれた大理石の床を青白く照らしている。私は自らの足音を、厚手の絨毯に吸い込ませるようにして歩いた。
公爵嫡男、アルフレッドとしての役目を終えた後の体は、ひどく重い。
この肉体は、今日一日でどれほどの「男の特権」を行使しただろうか。練兵場で騎士たちを畏怖させ、執務室で数千人の運命をペン先一つで弄び、社交クラブで傲慢な男たちの称賛を浴びた。そのすべてが、アルフレッドという「完璧な殻」を通すことで、高潔な輝きを放つ。
自室に辿り着き、重厚な扉を閉ざす。カチリ、と内鍵をかける音が、この世界で唯一、私が「私」に戻れる時間の始まりを告げる合図だ。
「……ふう」
私は、アルフレッドとしての低い、深い呼吸を吐き出した。
肺の底に溜まっていた「支配者の空気」をすべて追い出すように。
広い室内には、微かなインクの香りと、高級な葉巻の残り香、そして男たちが好むスパイシーな香水の匂いが漂っている。それらすべてが、今の私には酷く異質な、身に合わない衣装のように感じられた。
私は姿見の前に立った。
鏡の中にいるのは、月光を浴びて彫刻のように静止する絶世の美青年だ。鍛え上げられた肩幅、力強い首筋、そして他者を支配することに慣れきった傲岸な眼差し。
私は、自らの意思でその眼差しを解体していく。
まずは、固く結ばれていたネクタイを乱暴に引き抜き、床に捨てた。続いて、公爵家の紋章が刻まれた銀のボタンを一つずつ外していく。上質なウールのジャケットを脱ぎ捨て、シルクのシャツをはだけさせると、そこには私が前世で呪い続けた「強者の肉体」が露わになった。
この逞しい胸板、厚い手のひら。
これらの「暴力」に屈し、その重みの下で窒息しそうになっていた私。
だが、今はどうだ。その「重み」自体が、私の内側に備わっている。
私は鏡の中の自分の肌を、自らの指先でなぞった。指先に伝わるのは、アルフレッドとしての硬い質感だが、それを感じる意識は、紛れもなく路地裏の泥を啜っていた女、ルナのものだ。
「……気持ち悪いほど、馴染んでいるわね」
こぼれ落ちた声は、日中のバリトンではなく、どこか儚げで、毒を含んだ女の響きを帯びていた。
この肉体は、私が世界を「ハック」するための最強のデバイスだ。男として振る舞えば振る舞うほど、世界は私の足元に跪く。だが、その恩恵を享受すればするほど、私の本質である「ルナ」の輪郭が、男という特権の激流に飲み込まれて消えてしまいそうな恐怖に襲われる。
だからこそ、この「儀式」が必要なのだ。
私は椅子に深く腰掛け、机の引き出しから漆黒の表紙の日記帳を取り出した。
これを書く間だけ、私は「アルフレッド」という呪縛から解き放たれ、ただの復讐者に戻ることができる。
だが、今日の筆先は、昨日までとは少し違う熱を帯びていた。
脳裏に浮かぶのは、あの図書室で跪いたエレナ・ヴィンセントの瞳だ。
彼女は、私の毒に当てられ、戦慄していた。
普通の令嬢であれば、恐怖に震えて逃げ出すか、あるいは「少し変わったお方の戯言」として記憶の隅に追いやっただろう。だが彼女は違った。彼女は、私が提示した絶望の淵を真っ直ぐに覗き込み、そこに自分の居場所を見つけたのだ。
かつて、私の周りにいた男たちは、私を「商品」として見ていた。
今の私の周りにいる男たちは、私を「偶像」として見ている。
だが、エレナだけは、私を「同類」として見た。
アルフレッドという完璧な肉体の奥底で、泥に塗れたナイフを隠し持っている一人の女。その「不純物」としての私を、彼女は無意識に嗅ぎ取ったのだ。
『——今日、私は初めての収穫を得た。
エレナ・ヴィンセント。
彼女を自立へと導くことが、私の良心によるものか、それとも彼女を私と同じ地獄へ引き摺り込むための狡知によるものか、今の私には断定できない。
ただ、彼女が私の手に触れた瞬間のあの熱は、冷めきっていた私の指先に、かつての生の痛みを思い出させた。』
私はそこまで書いて、一度ペンを止めた。
インクが紙に滲んでいく。
共犯者。
その言葉の響きは、孤独に慣れきった私にとって、甘美な誘惑であると同時に、致命的な弱点になりうる劇薬だ。もし彼女が、私の「正体」そのものに辿り着いたとしたら。いや、その前に彼女がこの不公平な世界に潰されてしまったとしたら。
「……弱気ね、ルナ。君が教えるのは、守り方じゃない。戦い方でしょう?」
自嘲気味に呟き、再びペンを走らせる。
『男たちは、彼女を「守るべき花」だと思っている。
だが、明日から私が彼女に教えるのは、自らの茎を鋼に変え、甘い香りの代わりに毒を噴き出す方法だ。
ヴィンセント家の財政、ひいては公爵家が握る経済の結節点。
そこを彼女というナイフで切り開く。
男たちが当然のように享受している「数字の支配」という牙を、彼女に授けるのだ。』
日記を書き終え、私はインクを乾かすためにしばらく紙面を眺めていた。
指先には、ペンを握りしめていたための微かなインク汚れが残っている。
公爵嫡男の手。剣を振るい、領民に慈悲を与え、権力を誇示するためのこの美しい手。
その指先にあるインクのシミだけが、今の私にとって唯一の「真実」だった。
私は、その汚れた指で自らの唇をなぞった。
鏡の中の青年が、誘うような、それでいて冷酷な笑みを浮かべる。
「おやすみなさい、アルフレッド。……おはよう、ルナ」
私は立ち上がり、窓辺へと歩み寄った。
夜の帳が最も深くなるこの時間、私は確かにこの世界の王だった。
明日、火曜日。
私が着手するのは、公爵家の「心臓部」である経済の解体だ。
父が、そしてこの国の男たちが「伝統」と呼び、安穏として座り込んでいるその玉座。その脚を一本ずつ、数字という名のシロアリで食い散らかしてやる。
エレナに教えるのは、まずは「帳簿の裏側」だ。
男たちが無能な愛想笑いの裏で、どれほど女たちの労働を安く買い叩き、それを「繁栄」と呼び変えているか。その醜悪な計算式を教え、彼女にその式を書き換える力を与える。
私は日記を閉じ、引き出しの奥深くへと仕舞い込んだ。
重厚なベッドに身を沈めると、アルフレッドとしての体力が限界に達していたことに気づく。泥のような眠りが私を誘う。
意識が薄れゆく中で、私は誓った。
たとえこの肉体が「男」として完成されていたとしても、私の魂は、あの路地裏の冷たさを、あの銀貨の重みを、そして自分を裏切り続けた世界への殺意を、決して手放しはしないと。
暗闇の中で、アルフレッドの心拍が静かに、力強く刻まれる。
そのリズムに合わせて、ルナの復讐劇は、より深く、より狡猾に、この国の静脈へと染み込んでいくのだった。




