月夜の大逃走
その後は無我夢中だった。月明かりにぼんやり浮かび上がる街道を、ひたすら走った。いや、走っていたのはチョコで、俺はテイラーを抱えてしがみついていただけなんだけど。魔族が追いかけて来ているのか、チラチラと視界にたいまつの火が見える。あちこちで悲鳴が上がっていたが、気にしている場合ではなかった。とにかくヘイシュリグまで逃げる。頭にあったのは、それだけだった。
途中で人間だか魔族だかわからないものとすれ違った。向かい側から黒い馬らしきものが走ってくるなと思ったら、チョコがびっくりして路肩に飛び上がって逃げたので、振り落とされそうになった。
「どうどう!」
テイラーを抱えたまま手綱を操るのは、大変だ。つくづく馬に乗ることを習っていてよかったと思う。暗くてはっきりとは見えなかったが、どうやら騎馬隊のようだ。先頭はチョコの2倍はあろうかという巨大な黒い馬だった。同じく黒い鎧を着た騎士が乗っていて、長い槍を持っているのが見えた。後続は普通の馬に、月明かりに輝くプレートアーマーを身につけた騎士たちだ。
路肩で見送っていると、どこからともなくライラが現れた。
「大丈夫?」
小走りに俺たちの方に駆け寄ってくる。走って追いかけるとは言っていたが、まさか本当に追いついてくるとは。しかも、息も絶え絶えという感じではない。汗こそかいているものの、軽く胸を弾ませている程度だった。
「ライラこそ大丈夫?」
ライラはチョコの頭絡に手をかけると「ほら、もう大丈夫だよ。おいで」と話しかけて、街道へと導いた。チョコはブルッと鼻を鳴らして、大人しくついていく。
「俺たちは大丈夫だけど、ライラ、本当に走ってきたの? 体力、すごすぎない?」
体力がないことはないと思っていた。修道院の仕事は、意外に力仕事が多いからだ。だが、それにしても……。もしかして、これが血が変成した効果なのだろうか。
「大丈夫よ。自分でも不思議なんだけど、目が覚めてからすごく体が軽いというかなんというか、元気一杯なのよね。みなぎっているっていうか」
月明かりの下でニコッと笑う。そして「ヘイシュリグに着いたら、修道院で落ち合いましょう」と言って、チョコの首筋をポンと叩いた。チョコは「わかった」とばかりにブルルッと鼻を鳴らした。
ヘイシュリグに着いたのは、夜が明けきらない時間帯だった。寝静まっていると思っていたら、あちこちにたいまつが焚かれて、多くの修道士が警戒に立っていた。まるでクーメンが占領された時のフェンネルみたいじゃないか。
「イースからの難民の方ですか?」
街に入ったところで、一人の若い修道士が近づいてきて声をかけてきた。手には槍を持ち、皮の鎧を着て武装している。
「あ、はい。そうです」
チョコを止めて答えた。
「修道院はもう満員で、休むところがありません。宿舎街に行ってみてください。宿を開放しているので、空き部屋があるかもしれません」
修道士は宿舎街の方を指差した。
「そうなんですね。でも、俺、修道院で待ち合わせている人がいて」
チョコが落ち着かないので、手綱を引きながら返事をする。修道士は困った顔をした。
「修道院で待ち合わせている方、多いんですよね。それで満員になっていてですね。行くのは構いませんが、妹さんを休ませる場所はおそらくありませんよ」
修道士はチラッとテイラーに視線を走らせた。俺たちはきょうだいに見えるのか。全然、似てないけど。歳の頃から推測すれば、そう考えるのが自然なのかもしれない。
「ありがとう」
俺は礼を言うと、修道院へ向かった。驚いた。修道院どころか、その前の広場からもう人で一杯で、路上に毛布を敷いて寝ている人で足の踏み場もないくらいだ。ヘイシュリグで待ち合わせするなら一番、わかりやすいのはここだ。それだけに人が集中するのだろう。
幸いなことに厩舎の馬房には空きがあった。テイラーを下ろして馬房の隅に寝かせると、チョコに水を飲ませ、近くにあった干草を与えた。「ありがとうな。お前が来てくれたから、命拾いしたよ」。首筋を撫でてやる。チョコは俺のことなど無視して、無心に干草をほおばった。
テイラーは大丈夫だろうか。ここまで馬上でかなり揺れた。また出血しているのではないか。そばに行って確認する。目を閉じて、パッと見た感じは普通に眠っているように見える。顔を寄せると、息をしているのがわかった。よかった。ちゃんと生きている。もうダメだと思っていたので、本当にホッとした。同時にドッと疲れが押し寄せてきた。
「テイラー、大丈夫か。とりあえず安全なところに着いたぞ」
耳元でささやいた。暗闇の中で目を凝らして、首の傷を見る。傷跡は生々しいが、出血はない。少し触ってみる。切られた直後のようにグラグラしていない。しっかりとくっついたようだ。
「ぶごっ」
俺が傷口を触っていると、テイラーが咳き込んだような、小さなうめき声を上げた。意識を取り戻したのだろうか。
「ごめんな、テイラー。痛かったか?」
顔を寄せて聞く。目はまだ閉じているが、口が少し開いていた。唇の奥で、歯がかすかに動いているのが見える。よかった。動いている。たぶん大丈夫だ。いや、大丈夫だと信じたい。テイラーのモシャモシャの髪を優しく撫でた。タイタンに首を切られた時に髪も切られてしまったのか、襟足の部分がざんばらになっていた。
「大丈夫だ。ここは安全だから」
髪を撫でながら、話しかける。無事に目覚めてくれ。それさえ叶えば、あとは何もいらないと思った。
干草の香ばしい匂いが、冷たい夜風に巻き上げられて鼻腔をくすぐった。ここの馬房はよく手入れされている。糞尿の匂いがほとんどしない。テイラー、やっぱり太ったな。以前はこんなにまんまるの顔ではなかったぞ。ほっぺたがぷにぷにしているじゃないか。別行動している間、どれだけいいものを食べさせてもらったんだ?
気がつけば、ポロポロと涙がこぼれていた。よかった。本当によかった。テイラーが生きていてくれて、本当によかった。エドワードには酷いことをされたけど、一生懸命、蘇生してくれたことに関しては、感謝しなければいけない。絶体絶命のところで駆けつけてくれたライラにも、お礼を言わないと。
「ああ……あああ……」
涙が止まらない。テイラーが生きていたからなのか、それとも窮地を生き延びたからなのか、とにかく〝生きていてよかった〟と思えて、変な嗚咽まで出てしまった。
「ぐ……」
手の甲で涙を拭っていると、テイラーがまたうめいた。痛いのか、眉根を寄せて歯を食いしばって、苦しそうな顔をしている。大急ぎで逃げてきたので、痛み止めなど持っていない。修道院に入れば薬はあるかもしれないけど、ここに身動きできないテイラーを一人で置いて行くのは心配だ。どうしよう。
俺の頭の中に、パッとある光景が甦った。ライラがテイラーを生き返らせるために、ブチュッとキスしていたシーンだ。あれ、俺にもできないかな? 推測だが、おそらく口移しで魔力を与えていたんだろう。俺には魔力はないけれども、キスをすれば、脳から気持ちいいと感じる物質が放出されて、痛みを忘れると聞いたことがあるぞ。
「大丈夫か、テイラー」
添い寝して、ほほに手を添えた。テイラーの胸が小刻みに上下して、呼吸が荒いことがわかった。苦しんでいる。迷っている時間はない。俺のキスで楽にしてやるんだ。
ごくりと唾を飲んだ。なんで緊張しているんだ? キスなんて娼館で何度もしたことがあるだろう。酒場で酔いに任せてやったこともある。だけど、これは違う。今までやってきたキスとは違う。馬房の窓から弱い月明かりが差し込んで、テイラーの白いほほを照らしていた。赤い前髪からのぞくまつ毛が、長い。こいつ、こんなにかわいかったか?
ええい、何を躊躇しているんだ。俺はテイラーとキスするんだ。違う。好きだからするんじゃない。テイラーが苦しそうにしているから、それを取り除いてやるためにするんだ。俺は自分の唇を下、上と舐めた。テイラーに覆いかぶさる。テイラー、好きだよ。いや、違う。今、助けてやるからな。頭の芯の部分が、カーッと熱くなる。
「何やってんの?」
突然、背後から声をかけられて「うわぁ」と変な悲鳴を上げた。テイラーから飛び下りて振り返ると、馬房の前にライラが立っていた。
「ああ、びっくりした。ライラか」
「探したよ。修道院の中にいないし、馬で来たから、もしかしたらここかなって」
ライラは馬栓棒をくぐって馬房に入ってきた。俺の隣に座って、テイラーの顔をのぞき込む。
「さっきから小さなうめき声を発しているんだ。なんか、痛いのかな……」
冷や汗が吹き出す。別に悪いことをしようとしていたわけではないのだけど、テイラーにキスしているところをライラに見られるのは、何だか気まずかった。ライラはテイラーの額と自分の額をくっつけたり、ほほに手を当てたりしていた。俺が黙っていると、そのまま、またテイラーと唇を合わせた。
「それ、何やってるの?」
答えない。しばらくテイラーとねっこりディープキスをして、「ぷはぁ」と言いながら体を起こした。
「勘違いしないでよね。エロい要素は一切ないんだから」
口元を拭いながら、ジロリとにらむ。
「わかってるよ。人が死にそうな時に、エロ目的のチューなんて普通しないでしょ」
ライラは俺の話を聞いているのかいないのか、テイラーの服をめくって傷の具合を確認している。しばらくして「うん、ひとまずは大丈夫かな」と一人でうなずいた。
「とりあえず、私の部屋に行きましょ。話はそれからよ」
ライラは立ち上がった。さっきは気づかなかったが、スラックスは泥だらけでヨレヨレになっている。シャツもあちこち汚れて、汗でしなしなになっていた。
「え? ライラの部屋に?」
「そうよ。ほら、早く立って。テイラーを背負ってちょうだい」
ライラは俺の背中をポンと叩いた。




