雌伏
キースと話しているうちに眠ってしまって、気がつけば夜が明けていた。明かり取りから陽の光が差し込んでいる。ハーディーは無事に戻ってきたのだろうか。小便を済ませてから、牢屋の壁際に寄って小声で話しかけた。
「ハーディー。大丈夫か?」
ひと呼吸置いてから、壁の向こう側でゴソゴソと動く気配があって「うごっほ」と声を潜めた返事があった。語感から、たぶん『大丈夫でござる』と言っていると思われた。そうか。ひとまずよかった。ひどい拷問などを受けているのではないかと、心配していたのだ。
「そうか。それで、どうなった? 結局、エドワードの言うことを聞いたのか?」
耳飾りがないので、ハーディーが何を言っているのかわからない。だけど、聞かずにはいられなかった。また少し沈黙があってから、さらに声を潜めた返事があった。
「むがっ、むがっは」
申し訳ない。どうしようもなかったのでござる。俺にはそう聞こえた。そうか。そうだろうな。ハーディーのことだ。俺が右手に何かされたことに気がついただろう。そして、これ以上、俺が痛めつけられないように、即座にエドワードの申し出を飲んだに違いない。たぶん、全面降伏だ。オリジンへの指揮権を譲渡してしまったかもしれない。
「ううっ、うごっ」
まだ何か話している。おそらく、謝っているのだ。万物の源は自分が持ち帰ってタイタンに手渡すはずだったのに、俺を巻き込んで申し訳ないと言っているのだろう。発音から意味は全く汲み取れないけど、もう長い間、ハーディーと付き合ってきて、なんとなく語感でそう言っているのがわかるようになった。
「ハーディー、気にすんな。この冒険に関わったのは、俺の意志だ。お前のせいじゃねえよ」
そばにいれば肩でも叩いて励ましてやりたいところだが、ハーディーのと間には分厚い壁があって、できない。肩を叩く代わりに、壁をポンポンと叩いた。
「うごぉ……」
まだ謝っている。もういいんだ。それよりも早くここを脱出することを考えよう。ハーディーがエドワードの言うことを聞いたのであれば、万物の源を使う段階になれば、少なくともハーディーはここから出してくれるのではないか。ハーディー、アンが「ああしろ、こうしろ」と指示する必要があるからだ。ただ、俺は出してもらえないだろうな。エドワードが万物の源を使って、アフリートで魔族軍に手痛い攻撃を食らわせて、それが一段落したら解放してもらえるかも知れない。長いな。その期間、たぶん結構長いぞ。
朝飯が来た。いつもの硬いパンと一欠片のチーズ、水だ。代わり映えしない。牢屋は朝は冷える。何か温かいスープが飲みたいな。潰した芋にミルクを加えて、濃いめの塩味に仕立てたものがいい。寒い日の朝に、おふくろがよく作ってくれた。そういえば、おやじとおふくろは無事だろうか。イースの北に住んでいる。この街が戦場になる前に、どこかに避難してくれればいいのだが。
チラリと斜め向かいの牢屋を見ると、キースが水でパンを流し込んだところだった。いつも食べるのがめちゃくちゃ早い。他にやることもないので、ゆっくり食べればいいのに。そう言えば、ここに来てからキースが引き出されて、尋問されている気配がない。何のために閉じ込められているのだろう。キースはダッチの居場所を知らないのだ。目をくり抜いて、どれだけ拷問しても、知らないものは教えようもない。
その日は何事も起きなかった。ハーディーも俺もキースも呼び出されることはなく、ただ淡々と時間が過ぎていった。差し入れを持ってくると言っていたニュウニュウは来なかった。ライラがあの後、どうなったのか知りたいのに。大丈夫だろうか。目を覚ましたら魔族になっていて、ニュウニュウに襲いかかったりしていなければいいけど。
夕食の後に薬箱を持った修道士がやってきて、俺の右手を治療して行った。治療と言っても消毒薬で洗っただけで、魔法でガツンと治してくれるわけではない。雑に消毒薬をザバザバと振りかけて、拭いて終わり。薬が染みて、思わず悲鳴を上げそうになった。
「酷くない? 痛み止めほしいんだけど」
包帯を巻かれながら、愚痴を言ってみる。修道士は俺の言葉が聞こえないかのように、表情を全く変えずに巻き終えると、薬箱を手にして立ち上がった。ちっ、無視かよ。はがされた当日ほどではないが、ジンジンとうずく痛みは簡単には治まりそうもなかった。これ、爪がまた元通りに伸びてくるまで続くのだろうか。今、右手では細かい作業はできない。何しろ痛くてズボンを下ろすことにも使えないのだ。
これからどうなるのだろう。明かり取りの下に行って、遠くの夜空を見上げてみる。今にして思えば、あの空を何の障害もなく見られていた頃は、幸せだったな。自由って素晴らしい。
「シヒヒヒ……。ここから逃げ出す方法を考えているのか? 無駄、無駄」
キースが話しかけてくる。囚人同士の会話は厳禁だと思っていたが、見張りの兵士たちは、俺たちが言葉を発するたびに注意するのが面倒なのか、声を潜めてコソコソ話している分には何も言われなかった。声が高くなると「おい、話をするな!」と叱られたが。
「お前はここから脱走することを、考えたことがないのか?」
キースは獣人だ。人間より体が大きく、力も強い。何より獣人なので、走るのが速いはずだ。力ずくで逃げ出そうとしなかったのだろうか。
「そりゃあ、あるとも。だが、捕まった時に足の腱を切られてしまった。そして、今後は目玉だ。五体満足なら逃げ出すこともできるだろうが、今はそうはいかねえ」
キースは鉄格子のそばに近寄ってきた。尖った口吻が、常夜燈と夜の闇の間でチラチラと動いている。
「だけど、ダッチに会うためには、ここから出ないといけないだろう?」
そうだ。キースはここで囚われたまま、死ぬつもりはない。脱出して、神と崇めるダッチに会うのだ。何としてでもここから抜け出さなければいけない。
「うむ。だから、頭を使う。俺はウルヴェンだ。ヒトとは違う」
キースは長い指で、自分の耳の辺りをトントンと突いた。頭を使うだって? 人間よりも賢いつもりなのか? 俺の知る限り、獣人はアホとは言わないが、それほど賢くない。少なくとも悪魔ほど狡賢くはない。
「頭を使うって、どうするんだよ」
「それを今、考えているところだ」
……。
いや、ツッコめない。かくいう俺も、ここからどうやって自力で脱出するのか、思いつかないからだ。よく物語で主人公が牢屋から逃げ出すシーンがあるが、実際に自分が同じ状況に置かれて、そんなに簡単にはいかないことがよくわかった。まず、手元に何も道具がない。そして、道具を作ろうにも、爪をはがされて細かい作業ができない。鉄格子は絶妙なサイズで、すり抜けられない。壁も地面も掘り返せない。どこにも逃げ道がない。誰かがあの扉を開けてくれない限り、外に出られそうにない。
そう。誰かが開けてくれない限り。
助けを呼ぶか。だが、どうやって? 方法はなくもない。あの明かり取りの穴から、狼煙を上げればいい。狼煙を上げるには何か燃やすものが必要だ。俺の服を燃やせばいい。どうやって火をつける? 大小便用のバケツをバラして、こすってみるか。しかし、じっとりと湿っていて、発火させるにはまず乾燥させなければならない。
その狼煙を誰に見せる? 上は城の庭だ。誰かが通りかかれば、見つけてくれるだろう。だけど、その人が俺の味方とは限らない。
「ここの床は意外に頑丈だ。3重、4重に岩盤が設置されていて、穴を掘って逃げ出すのは難しい。難しいっていうか、無理だな」
キースが闇の向こうから話しかけてくる。獣人なので、まずは地面を掘り返すというところに目線が行くらしい。岩盤があることを知っていると言うことは、掘り返したことがあるのだろうか。
「3重、4重って、そこまで掘ったことあるのか?」
キースの口吻が、スッと闇の向こうに引っ込んでいく。ゴロリと体勢を変えた音がした。
「だから、掘れねえって言ってるだろうが。アホなのか? 俺たちウルヴェンは、音波で見えない障害物もわかるんだよ」
アホなのかと言われても、そんなこと知らないし。
翌日も、翌々日も何も起きないまま、時間が過ぎて行った。エドワードはもちろん、ニュウニュウもシャインも来ない。忘れ去られたのではないか? 明かり取りを眺めて、ただ時間が過ぎていくのを見つめるしかなかった。
指先の出血が止まり、爪をはがれた部分がようやくうずかなくなったのは、俺たちが牢屋にぶち込まれてから5日目のことだった。その日は朝から様子がおかしかった。地上が騒がしい。明かり取りの向こうから大勢の足音や話し声が聞こえる。
「何か始まったのか? ヒトがたくさん集まってきたじゃねえか」
キースが独り言のようにつぶやいた。そうだ。ついに始まったのだ。魔族軍を迎え撃つ日が来たのだ。漏れ聞こえてくる声からすれば、地上にいるのは軍隊だ。王都に集まってきている。ベンがいるかもしれないとチラッと考えたが、すぐに頭の中からやつの顔を追い出した。いや、やつに助けてもらうケースなんて、あり得ない。そんな気の利くやつじゃない。
軍隊は一度、城に集まって、それからどこかへ出掛けて行ったようだ。午前中はザワザワしていたが、昼以降はシンと何事もなかったかのように静かになった。それが逆に怖かった。嵐の前の静けさって、こんな時間のことを言うのかもしれない。
戦闘が始まれば、逃げ出すチャンスだ。城の連中は魔族軍に集中していて、俺たちに気を配っている余裕はない。だが、どうやって抜け出す? 何か道具はないか? 改めて牢屋の中を見回す。バケツしかない。俺の小便で湿ったバケツ。これでどうしろっていうんだ?
せっかくのチャンスなのに、何もできない。明かり取りから差し込む陽光がオレンジ色になり、夕刻になったことを知らせていた。気ばかり焦り始めた頃、ドサッと何かが地面に落ちた音がした。なんだ? 鉄格子に近寄る。誰かやってくる。見張りの兵士の足音ではない。もっと軽量のブーツの足音だ。あれ? なぜ軽量のブーツだとわかる? どうして俺はこの足音を知っている?
シュッシュッとほとんど足音をさせずに、背の高い人物が俺の牢屋の前に立った。ああ、ちょっと待ってくれ。知っているはずだ。俺はこの人をよく知っている。
「クリス。さあ、出るぞ」
腰に手を当ててニヤリと笑ったのは、他でもない俺の師匠、盗賊王スティーブンだった。




