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灰色の疾風

 ガチャンと牢屋の扉が開く音がして、目が覚めた。全く衰えていない右手の痛みが、意識を失ってからそれほど時間が経っていないことを知らせている。「出ろ」。修道士の声がする。隣の牢屋だ。ハーディーがまた連れて行かれるのだ。暗い。明り取りの向こうは真っ暗だった。まだ夜なのだろう。気温も低い。


 こんな時間に連れて行かれるのか。エドワードは本当に急いでいるんだな。ハーディーの足音が遠ざかっていく。もう鉄格子にかじりついても、後ろ姿を見送ることはできないだろう。俺はよろよろと立ち上がると、部屋の隅のバケツに行って小便をした。右手が痛くて使えないので、ズボンを下ろすのも、狙いを定めるのも左手だけでしなければいけない。ものすごく不便だ。小便は少しだけしか出なかった。


 俺が痛めつけられた姿を見て、ハーディーはこれ以上、俺に被害が及ばないようにしなければと思っただろう。アンも同じはずだ。エドワードの申し出……いや、命令を聞くしかない。


 結局、エドワードの思い通りになるのか。


 クーメンとは比較にならない規模の軍勢がやってきて、ここは戦場になる。城壁の外に攻め寄せた魔族にアフリートが炎を叩き込み、大ダメージを与える。魔族は思い知るだろう。「人間に手を出すのはまずい。割に合わない」と。それで引き下がってくれればいいが。「ふざけるな。何が何でも万物の源を取り戻して、痛い目にあわせてやる」と思ったらどうしよう。それこそ血で血を洗う人間と魔族の大戦争に突入するぞ。


 これまでの経験から、魔族とは話が通じないわけではないということは知っている。なかにはエリックのように、手を取り合うことができるやつもいる。ただ、それはエリックと俺の仲だからであって、みんながみんなそうできるとは思わない。ラルフとエドワードなんかは水と油だろう。魔族にもいろいろなやつがいるし、人間にもいろいろなやつがいる。


 ハーディーはそんなにすぐには戻ってくるまい。毛布にくるまって寝直そうと腰を下ろしたところで、闇の向こうから獣人が声をかけてきた。


 「五体満足で戻ってきて、よかったな」


 シヒヒヒ……と笑う。最初はイラッと癇に障る笑い方だと思ったが、もう慣れた。何が五体満足なものか。右手の爪が全部ないんだぞ。とはいえ、こいつよりはマシか。


 「お前、目をくり抜かれた時、めちゃくちゃ痛かっただろう」


 何となく普通に話しかけた。退屈だったからか、それともこいつの身の上を知りたかったからか、理由はよくわからない。だけど、初めてこいつときちんと話してみる気になった。俺の反応が少し変わったことに驚いたのか、獣人は闇の中で軽く息を呑んだ。しばらくして、ずるずると鉄格子のそばまで這いずり寄ってきた。俺も鉄格子のそばに腰を下ろす。


 「そりゃあ、痛かったさ。それこそ、目が飛び出すほどにな」


 シヒヒヒ……と笑ったので、冗談のつもりなのだろう。だけど、少なくとも今の俺には、笑う余裕はなかった。


 「よく耐えられたな」


 素直な感想を口にする。爪をはがされただけで、あんなに痛かったのだ。獣人はフンと鼻を鳴らした。


 「人間の拷問などで根を上げてたまるものか。俺は誇り高きウルヴェンの戦士だ」


 ウルヴェンというのは、狼族の獣人が自分たちのことを呼ぶ時に使う言葉だ。獣人にはさまざまな種類がいて、俺たちはシンプルに「犬の獣人」とか「猫の獣人」とか言う。しかし、彼らはそれぞれに他の獣人とは違うという意識があり、特に狼族にはそれが強い。自分たちのことをウルヴェンと呼んで、他の獣人と一緒にされることを嫌う。と、『世界の歩き方』に書いてあった。


 「そうなんだ……。誇り高き戦士なのに、こんなところにぶち込まれているんだな」


 捕虜になるのって、屈辱ではないのだろうか。俺たちみたいな冒険者なら生き延びることを第一に考えるが、軍人は違う。囚われて拷問されて、情報を吐いてしまうことを何よりも嫌う。だから、軍人は捕虜になるよりは死を選ぶ傾向にある。スティーブンさんからそう聞いたことがある。


 「当たり前だろう。ヒトはそうではないのかも知れないが、ウルヴェンは最後まで生きることを諦めない。ダッチさんもそう仰っている」


 獣人は少し憤慨したように、鼻息を荒くした。またダッチさんが出てきたぞ。そういえば、パンゲアに行った時に、ラルフにダッチの話を聞けなかったな。本来はラルフにダッチの居場所を吐かせて、ダッチともどもやっつけるつもりだったのだけど。


 「お前たち、本当にダッチさんが好きだな」


 ダッチって、魔族にとってどんな存在なのだろう。クーメンで聞いた時には、なんとなく神様の代理人とか、預言者みたいな人物を想像したのだけど。


 「そりゃそうだ。ダッチさんの言う通りにしていれば、間違いはねえ。ダッチさんは俺たちを導いてくださる」


 獣人の口調が、少し変わった。いつも小馬鹿にしたようにせせら笑いながら話しているのに、真剣だ。


 「ダッチさんの言葉って、ラルフって悪魔が伝えてくれるんだろう? 残念ながらそのラルフは、俺たちがやっつけちまったよ」


 囚われている身で何を言っているんだ。こんなこと言っても、信じてもらえないかも知れない。だが、獣人は意外な反応をした。


 「ほう、そうか! それはありがたい」


 声が弾んでいる。えっ、どうして? お前たち、魔族なんだろう? なぜラルフを倒した俺たちに感謝する?


 「え? どういうこと? どうしてありがたいの?」


 獣人はさらにそばに寄ってきた。鉄格子の間から尖った口がニュッとのぞく。


 「ラルフが、ダッチさんが仰っていないことを、あたかもダッチさんが仰ったかのようにしゃべっていると、もっぱらの噂だったからだよ。ダッチさんの言う通りにやっているのに、うまくいかないことが最近、多くてな。俺がここにぶち込まれたのも、そうなんだ。だけど、ラルフがやられたのなら、これからは本当のダッチさんの言葉が、俺たちに降りてくるだろう?」


 ふうん。そんな事情があったのか。初耳のことで、興味をそそられた。


 「だけど、ダッチさんの代理人がいなくなったんだぞ? 代わりに誰がダッチさんの言葉を伝えるんだ?」


 そうだ。今頃、ダッチはラルフと連絡が取れなくなって、困っているに違いない。獣人はフーンと強めに鼻を鳴らした。


 「今回のダッチさんは、どこでどんな形に生まれ変わったのか、誰も知らないんだよ。ラルフが『広く知られたら、人間に殺されるかも知れない』と言って、隠したんでな。だけど、そろそろダッチさん自身が、自分がダッチさんであることを思い出す頃だ。思い出せば、近くにいる者に『自分がダッチさんだ』と伝える。その後はダッチさん自身が予言を伝えることもあれば、近くにいる者が代理人を伝えることもある」


 獣人はものすごく詳しく、ダッチの仕組みを教えてくれた。なるほど、ダッチは転生を繰り返していると聞いたが、引き継ぎの時期はそういうことになっているんだな。


 「だから、俺は今回のダッチさんの真の言葉を聞くまでは、死ぬわけにはいかないんだ。あのガキはダッチさんがどこにいるのか、俺の目をくり抜いて聞き出そうとしたが、そういうことだから、俺はまだ知らない。腕をもぎ取ろうが、内臓を引きずり出そうが、知らないものは言いようもないってわけだ」


 シヒヒヒ……と皮肉っぽく笑った。


 「そうか。お前は新しいダッチさんに会いたいんだな」


 鉄格子からのぞく口吻が上下に動く。うなずいているのだろう。


 「そうだ。生まれ変わったダッチさんに会うことは、ウルヴェンにとってはこれ以上ない祝福なのだ。ヒトには理解できないだろうがな」


 そうか。こいつはそれで、目をくり抜かれても、ここで生きることにしがみついているんだ。俺は感心した。何か冒険者に通じるものを感じる。目標があって、そのためには何があっても、はいずってでもそこに向かって進んでいく。


 「俺はクリスって言うんだ。本当はクリストファーって言うんだけど、みんなクリスって呼ぶので、そう呼んでくれ」


 ここで名乗ったところで、やつが俺の名前を呼ぶことがあるのだろうか。機会はないかもしれない。だけど、俺はこんなにいろいろと貴重な話をしてくれたこのウルヴェンに、敬意を示したかった。獣人は驚いたのか、闇のなかで少し体を起こした。名前を教えてくれるかな。まあ、教えてくれなくてもいいか。こいつとは、牢屋のお向かいさん以上の関係にはならないかもしれない。


 「変なやつだな。ウルヴェンに名乗るヒトなど、会ったことがない」


 独り言のようにつぶやいている。


 「いろいろと教えてくれたお前に、敬意を払いたいだけだ」


 照れ臭いが、言えることは今のうちに言っておこう。照れ隠しで自分の右手をさする。まだ痛い。ドクドクと脈打っているが、出血は止まったようだ。


 「キースだ」


 突然、闇の向こうから声がした。


 「二つ名は〝灰色の疾風〟という。〝灰色の疾風〟キースだ」


 ウルヴェンが名乗っている。人間の俺に。鉄格子を挟んで、心が触れた気がした。


 「キースか。格好いい名前だな」


 闇の向こうに目を凝らす。明かり取りから漏れてくる微かな光のなかで、ボサボサの灰色の毛並みが浮かび上がった。キースは空洞の眼差しを、しっかりとこちらに向けている。


 「そうだ。実際にモテた。ドギーもキャッティも、メスはみんな俺にメロメロだ」


 キースは、どうでもいい情報を教えてくれた。ウルヴェンがドギー、要するに犬の獣人やキャッティ、猫の獣人にモテるというのがいいことなのか悪いことなのか、よくわからない。だが、あんなボサボサの外見で本当にモテたのか? それとも洗ってやればきれいになるのだろうか。


 その後、キースは少し身の上話をしてくれた。出身はパンゲアのずっと南西にあるカイエンという街で、5匹の兄弟がいて、みんな戦士なのだそうだ。カイエンは近年、温暖化が問題になっていて、それを解決するために新たな居住地を求めて、北東へと移動してきたという。クーメンやヴァジリを攻めているのはその一環で、たまたま住みやすそうな土地に人間の集落があるので、追い出して住んでやろうということらしい。


 「いや、それ、すげえ迷惑なことをしているって自覚、ある?」


 呆れて開いた口が塞がらない。


 「なぜ迷惑なんだ? 人間だろ? あんな弱っちい生き物、追い出して何が悪い?」


 キースは戦闘で兄弟を2匹、失った。一丁前に抵抗してくる人間のことが、鬱陶しくて仕方がないと言う。なるほど。これが獣人の思考なのか。

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