おっお!おっお!
翌朝、俺たちは早めに起きて朝食を摂った。盗賊ギルドへ向かう前に、ライラの様子を見に行った。ドアをノックすると「どうぞ〜」とニュウニュウの声がする。開けると、ニュウニュウがライラの足をタオルで拭いているところだった。
「どう? 状態は」
布団をはね上げ、ワンピース型のパジャマをめくりあげて拭いているので、白い太ももがあらわになっている。普段ならばエロい光景に興奮してしまうのだろうが、逆に血の気を感じない白さが、ライラの病状が全くよくなっていないことを感じさせて、沈鬱な気分になった。
「ああ、よくも悪くも変わりないわ」
ニュウニュウは顔を上げると、ニカッと笑った。この人、いつも楽しそうだな。それくらい前向きな気持ちでやっていないと、姫の側近とか魔法使いギルドのマスターとか、そんな責任ある立場はやっていられないのかもしれない。
『意識は戻らないのでござるか?』
ハーディーが聞いた。
「戻らんな」
ニュウニュウはライラの足の指の間まできれいに拭き上げると、パジャマを元に戻して布団もかけ直した。パンパンと手を叩くと、ベッドから降りて俺たちの方を向く。
「あんな、クリス」
腰に手を当てて、何やら真剣な顔をした。
「なんでしょうか」
そんな顔をされたら、こっちも気が引き締まる。なんだろう。何かやったかな?
「ライラが目を覚ましても、血が変成していることは黙っておこうと思っとるんや」
ニュウニュウはそばにあった椅子の背に、タオルをポイッと放り投げた。タオルは濡れていたのだろう、フワッという感じではなく勢いよく飛んでいって、背に引っかかった。
「何も起こらんかもしれへんし、いきなり言うたら本人も混乱するやろうし。何かが起きてからでええんとちゃうかと思うんや」
近づいてきながら、指をくるくると回して言った。
「確かにそうだな。いきなり『魔族になった』なんて言ったら、取り乱しそうだしね」
どう伝えたものかと、思案していたのだ。ライラの血液は、魔族と同じ質になってしまった。そんなことを言われたら、ライラは激怒して大暴れした後、大泣きしてどこかへ姿をくらましてしまうかもしれない。ライラのアイデンティティに関わる問題だからだ。
「よっしゃ、じゃあ、それで行こう」
ニュウニュウはニコッと笑ってうなずく。その笑顔に救われた気がした。この人がいなくて、俺とハーディーだけでライラの世話をしていたら今頃、どうすればいいのかわからなくなって、心が折れていたかもしれない。
◇
盗賊ギルドの朝は早い。午前8時を回れば、もうみんな通常業務についている。それくらいの時間帯ならば、失礼には当たらないだろう。実際、俺が奉公していた時には、それくらいの時間になると客がぼちぼちと屋敷を訪れていた記憶がある。
まだ街が本格的に目を覚ます前。人通りが少なく、冷たい空気に浸された街並みを抜けて盗賊ギルドに着くと、やはりすでに朝の清掃作業が終わりかけている頃だった。研修棟を抜けて屋敷に向かう。こちらも掃除が終わっていて、丁寧に手入れされた庭の花々は水を浴びてツヤツヤとしていた。さすがにいきなりドアを開けるのはいかがなものかと思い、ベルを鳴らす。屋敷の中でジリリンと音がした後、ひと呼吸あって「はぁ〜い」と少し間の抜けた女性の声がした。この声はミランダさんだ。
「あらぁ、クリス。どうしたの? こんな朝早くに」
ドアを開けてくれたのは、やはりミランダさんだった。「朝早く」と口にしている割には髪をきちんとセットして、化粧も済ませている。都合のいいことに、一緒にニーナがいた。今朝は淡いピンク色のワンピースだ。カチューシャをしていないし、股の間から尻尾が見えている。どうやら、ここではもう半獣人であることを隠すつもりはないらしい。ニーナはミランダさんのスカートの後ろに半分隠れて、こちらをうかがっていた。
「すみません。ちょっと時間ができたので、ニーナに会いにきました」
へえ、警戒するようになったんだ。前回、会った時はライラがいたこともあったのだろうけど、ニーナはあまり馴染みがない俺たちのことを一切、警戒しなかった。しかし、今朝は明らかにミランダさんの後ろに隠れているし、少し眉を寄せて不安そうな顔もしている。「危ないかもしれない」と思うようになったのだ。
「あら、そう。ほら、ニーナ。クリスとハーディーさんがいらっしゃったわよ」
ミランダさんはニーナを促して前に出させようとしたが、ニーナはその手からシュルッと抜け出すと、壁際まで走って行って少し姿勢を低くした。俺たちから目を離さない。
「ごめんね。最近、人見知りするようになってね」
ミランダさんは困った顔をしたが、口元が笑っているところを見ると、そこまで深刻なものではないのだろう。ハーディーは腰を屈めて、ニーナに近づいた。
『ニーナ殿、お久しぶりなのでござる。拙者を覚えておられるかな? ハーディーのおじちゃんでござるよ』
右手を低い位置からスッと差し出す。ニーナはその手にチラッと視線を落として、すぐに顔を上げてジリッと後退りした。
「警戒するようになったんですね」
ミランダさんに聞いた。ミランダさんは少し眉を上げてから、うふっと笑った。
「警戒というか、人の区別が割とはっきりできるようになってきた感じなのよね。誰にでも笑いかけていた赤ちゃんが、お母さん以外は受け付けない幼児になった感じかしら」
実にわかりやすい説明だ。自分の子供を育てたことはないけど、自分の親やスティーブンさんの子育てを手伝ったことはあるので、その例えはとてもよくわかる。
「でも、好奇心は強いから。すぐに思い出して打ち解けると思うわ。それよりクリス、朝ごはんはもう食べたの? 何か食べる?」
盗賊ギルドでは、二言目には「メシは食ったのか?」と聞かれ「メシを食っていけ」と勧められる。それくらい、食べることを大切にしている。申し出はありがたいが、お城でパンと卵料理を食べてきてしまった。俺は申し出を丁寧に断った。ミランダさんは「何ならお茶だけでもどう? 飲みたいならいつでも食堂にいらっしゃい」と言い残して、仕事に戻って行った。
去っていくミランダさんを一瞬、見たものの、ニーナはその背中を追わなかった。四つん這いになってハーディーに恐る恐る近寄ると、鼻をピクピクさせて、右手の匂いを嗅いだ。その姿はまさしく犬だ。改めてニーナが半獣人であることを思い知らされる。
『ほーら。一緒にたくさん遊んだおじちゃんでござるよ。思い出してくれたでござるか?』
ハーディーは膝をついてジリッと近寄った。ニーナがふいにパッと立ち上がったので、ハーディーは少し驚いて体を起こした。
「おっお!」
ニーナは太い眉に力を入れて、ハーディーを指差して声を上げた。
『そうそう。おじちゃんでござるよ』
「おっお! おっお!」
前回、一緒に駆けっこをして遊んだことを思い出したのだろう。ニーナはハーディーに近づくと、その周囲をぐるぐると回りながら鼻を近づけてふんふんと匂いを嗅いだ。ハーディーの前に戻ってきて、また指差して「おっお!」という。
『思い出してくれて、うれしいのでござる』
ハーディーはそっとニーナの腕に触れた。ニーナが嫌がらないのを確認して、肩、頭と撫ででいく。ニーナはハーディーの大きな手をつかんで、指の匂いをふんふんと嗅いだ。嫌がって逃げ出す気配はない。ハーディーはニーナのほっぺたを撫でると、両腕で抱き上げた。
『また少し重くなったようでござるな』
ハーディーはそのまま立ち上がる。ニーナはチラッと足元を見て、ニコッと笑った。
「おっお、たかい、たかい!」
おっ、意味のある単語をしゃべったぞ! ハーディーが『そうそう。高いでござるよ』と話しかけると、ニーナは目を細めてキャッキャと楽しそうに笑った。
俺たちは庭に出て、少し散歩した。ニーナはハーディーの腕のなかから身軽に飛び降りると、「はな!」「くさ!」とあちこち指差しながら、知っている言葉を教えてくれた。
「ニーナ、俺のこと、覚えてる? クリスおじちゃんだよ」
クリスおじちゃんと自己紹介した記憶はない。それに、俺はこれまでニーナと遊んでやったこともない。だけど、ニーナと手を繋いで楽しそうに歩いているハーディーを見ていると、うらやましくて仕方がなかった。
「くーおっお! くさ! はな!」
ニーナは一応、反応はしてくれるのだが、俺を認識しているのかしていないのか、さっぱりわからない。
小一時間ほどニーナと触れ合って、俺たちは城に帰ることにした。帰る前にスティーブンさんにあいさつに行くと「なんだ、来てたのか。朝メシは食ったのか?」と聞かれた。もちろん、丁寧にお断りした。そろそろ城に戻らなければ。エドワードとの打ち合わせの時間が迫っている。
「どうだ、ニーナはまた一段と成長しただろう」
スティーブンさんは仕事部屋で書類に目を通しているところだった。手にしていた書類を机に置くと、俺の方を向いて微笑んだ。
「はい。言葉が増えましたね。表情も豊かになったし、人見知りもするようになって」
俺がうなずくと、スティーブンさんも満足げにうなずいた。大きな椅子にドッカと座り直して、体ごと俺の方を向いた。
「俺のことは『じぃじ』と呼ばせているんだ。初孫ができたみたいで、楽しいぞ」
机の上に置いてあったマグカップを手にして、ひと口すする。中身はコーヒーだ。俺が部屋に入った時に「クリスとハーディーさんにコーヒーを出してやれ」とアンドレアさんに言ったのだが、すぐに帰るつもりだったので、それも丁寧に断っていた。
何はともあれ、ニーナがここで大切にされているのがよくわかって、安心した。俺はライラが負傷して伏せっていること、可能ならばニーナを連れてお見舞いに行ってほしいことを伝えた。スティーブンさんは快く「ニーナの声を聞かせてやれば、ライラちゃんも目を覚ますかもな」と賛同してくれた。
帰りしな、ニーナが屋敷の玄関まで見送りにきてくれた。見送りにきたというより、俺たちを引き止めにきたと言った方が正しいかもしれない。ハーディーの手をつかんで「だめ、だめ!」と言って帰そうとしない。
『ニーナ殿、また会いに来るのでござる』
ハーディーは困った顔をした。いや、仮面をつけているので……。もういいか。アンドレアさんがやってきて、暴れるニーナを抱き上げて引き離してくれた。
「おっお、だめ! だめ!」
ニーナはハーディーを指差して、大きな声を上げた。
「ごめんなさいね。ニーナ。ハーディーさんもお仕事があるのよ?」
アンドレアさんはニーナをなだめる。ニーナはひとしきり騒いでいたが、そのうちほっぺたを膨らませて実に不満そうな顔をして、ようやく黙り込んだ。
「でも、気をつけてね。これから何かあるかもしれないわ」
アンドレアさんは苦笑いを浮かべて、俺とハーディーを見比べながら言った。
「何かって、どういうことです?」
「ニーナって、ちょっとした予知能力があるみたいなの。こうやってごねる時は、必ず何かが起きるのよ」
アンドレアさんは「ね〜、ニーナ」とニーナのほっぺたにキスをした。ニーナはブスッとした顔をして、宙をにらんでいる。
嫌な予感がした。




