Chap.14
とびきりおいしいピーチタルトとコーヒーで五人をもてなしてくれた後、P市でランチタイムにミーティングがあるからと言って、ミュリエル——フェリの養母——は、美術館まで五人を車で送ってくれ、夏休み中の再会を固く約束して去っていった。
別れる時、それぞれとハグを交わしたあとにミュリエルは由をもう一度ハグして、涙に潤んだ目で由をじっと見つめ、由の頬にそっと手を添えると、少しフランス語訛りのある英語で、
「Take care, ok?」
と言った。そして微笑むと、
「Please be his friend too. He's a very very good boy.」
veryのところにうんと力を込めて言ったので、由も思わず微笑んでしまった。
ミュリエルも、みんなも、自分を心配してくれているのが痛いほどわかって、有難いし、元気に振る舞わなきゃ申し訳ないと思うのだけれど、どうにもコントロールが効かなくて、由は麻痺したような心の片隅で焦っていた。
朝起きたばかりの時に拳をぎゅうっと力一杯握ろうとしても、なぜか力が入らなくてできない、あの感覚に似ている。
どうやったら、前みたいに…数時間前にしていたみたいに、普通に振る舞えるんだろう。
どうやって笑っていたっけ?どうやって喋っていたっけ?
どうやってため息をつかずに普通に呼吸していたっけ?
誰か教えてほしい。
美術館の中の『扉』の部屋に入った時、さっき「good luck」と言ってくれたように思えた木が、今度は「How did it go?」と訊いている気がして、由はじっと木を見上げた。
だめだったよ。ジャンじゃなかった。違う人だった。
そう心の中で言ってから、はっとした。
ちょっと待て。
すっかり忘れていたじゃないか。
あの手紙は、誰が書いたんだ?
キッと目を上げると、すぐ隣にいたダンと目が合った。
「どうした?大丈夫かい?」
「手紙…、あの手紙は誰が書いたんですか。フェリが書くはずないでしょう。向こうの世界のことなんて何一つ知らないんだし、ジャンがああやって封のところにJって書くのだって知ってるわけない。ミュリエルだって…」
ダンは小さく微笑んだ。
「そのことについては、一つ仮説を立てたんだ」
「どんな?」
「もう少し後で教えるよ。まだみんなには内緒にしておいて。僕にもまだよくわからないんだけど、でも十中八九、正しいと思ってる」
カッサに戻ってきたのは夜の八時近かった。どこに泊まるか思案の結果、ちょうど魔法大学内のゲスト用宿泊施設に空きがあったので泊めてもらえることになり——ロバートのコネのお陰だ——、部屋に荷物を置いたあと、ようやく五人はダイニングルームで遅い夕食のテーブルについた。
柔らかい照明の灯った、四人掛け、六人掛け、八人掛けの黒光りする丸テーブルがたくさん並んでいる、古風で大きな、天井の高い部屋だ。こんな時間なのに、ほとんどのテーブルが埋まっていて、一行の後にも到着する人達がいる。
「ルビナスでは夕食の時間が遅いの?」
結花が声をひそめて訊くと、ロバートが微笑んだ。
「ここを利用するのは、大抵、何かの研究とか学会の集まりとかで来ている研究者たちだからね。研究や討論に夢中になって、『おっと、何か食べなきゃ』と思うのが今くらいの時間ってことはよくあるね」
「そうそう」
雅代もダンも笑って頷く。
「ねえ、今まで訊いたことなかったけど…。雅代伯母さんは、卒業制作で最優等を取ったんでしょ。なのにどうしてそのまま研究の道に進まなかったの?」
結花の問いに、雅代はちょっとおどけて肩をすくめた。
「あの時はね、もう本当に、全身全霊で、自分の持ってる力を、底の底、隅の隅から全てかき集めて、全力投球したの。全てを出し切った。やりたかったことをやり切ったのよ。だからもう続けたいとは思わなかったの。すぐにまた他のテーマを見つけて研究しようなんてとても思えなかった。日本にもしばらく帰ってなかったし、普通の絵も描きたかったしね」
そしてニヤリとした。
「でも、そろそろかなあと思ってるわ」
ロバートとダンがほほうと声を上げ、由は静かな気持ちで雅代を眺めた。
研究か…。
全力投球。
寝食を忘れて、って言ってたっけ。
そんな気持ちになれるなんて、もうなんだか想像すらつかない。
今日の午後、駐車場から『扉』の建物に向かいながら雅代と研究の楽しさについて話した時には、あんなにはっきりと蘇った過去の輝かしい瞬間たちも、今はもう戻ってはこなかった。
あれから、数時間しか経ってないのにな…。
何でも、急に変わる。
何かが起こると、自分の中の何かが変わる。
そしてその前の自分にはもう戻れない。
泊まる部屋は個室だ。食事の後、廊下でみんなでおやすみなさいを言い交わして部屋に入ろうとしたら、結花がやってきて小声で言った。
「大丈夫?」
「うん…大丈夫になろうとしてるとこ」
「酒盛りする?」
もちろん本当にお酒を飲むわけではない。夜っぴて二人でおしゃべりすることを、昔からこう呼んでいるのだ。飲むのはお茶だけれど。
「…いや、今日はやめとくよ。なんか疲れたし」
「わかった。ねえ、由、」
結花が真剣な目をして由をじっと見た。
「私は、まだ諦めないよ。ジャンが生きてる可能性は、今日の出来事の前と後で全然変わってないんだしさ」
「……」
「むしろ、どこかで生きてる可能性が上がったって言ってもいいくらいじゃない?だって、フェリが、なんでだかさっぱりわからないけど、あんなふうに向こうの世界に飛ばされて、それでも元気に生きてたんだよ?」
「……」
由は呆然と結花を見つめた。結花の言っていることがよくわからないような気がした。言葉が頭に、心に、届かない。周囲に透明の分厚いシールドがあるような感じ。
でもなんとなく、何か明るい色のものが見えたような気持ちになった。寒い時に、ふと見上げた枝に白梅が咲いているのを見て、「あ」と思った時のように。
「酒盛りしたくなったら、いつでも起こして。じゃね」
「ありがとう、結花」
「the pleasure's all mine. おやすみ」
「おやすみ」
結花が隣のドアの中に消えるのを見届けてから、由も自分の部屋に戻った。
小さくて質素だけれど、きれいで快適な部屋だ。ベッドの近くに置いてある大きな一人掛のソファにボスッと腰を下ろす。
結花の言った言葉を反芻してみる。
ジャンが生きてる可能性は、今日の出来事の前と後で全然変わってない。
どこかで生きてる可能性が上がったって言ってもいいくらい。
…フェリは、どうしてP市に現れたんだろう?赤ちゃんだったんだし、自分で魔法を使って、なんてことはあり得ない。
そういえば、さっき『扉』の建物からここに向かって歩いていた時、雅代伯母さんがダンに『浮遊する扉』の存在の可能性云々について話していたっけ。特定のところにある例の『扉』とは違って、あちこちを浮遊している『扉』の話。声をひそめていたからよく聞こえなかったけれど。
例えばもし、あの薬が、その『浮遊する扉』を出現させるような薬だったとしたらどうだろう?自分の内側に『扉』が出現した場合、その人はどうなる…?
そんなことを考えているうちに、由はソファで眠りに落ちてしまった。
目が覚めた時、由は数秒の間、ここがどこで今がいつなのかさっぱりわからなかった。船?汽車?バス?フランス?これから夕食だっけ?
つけっぱなしだった灯りを消すと、カーテンの隙間から薄明かりが入ってくる。もう朝なのか、と驚いてベッドサイドのチェストに置かれている時計を見たら、もうすぐ四時半になるところだった。カーテンをそっと開けてみる。外は美しい夏の早朝で、まだ少し控えめな澄んだ朝の光の中、木々や花たちが気持ちよさそうにそよ風に揺れていた。
歯も磨かずシャワーも浴びていなかったことに気づき、急いでシャワーを浴び、歯を磨き、身支度を整えた由は、古風な机に置いてあった便箋に、
「今五時。ちょっと散歩に行ってくる。Yoshi」
と書いて畳み、結花の部屋のドアの下から滑り込ませると、足音を忍ばせて階段を降りていった。
宿舎の前庭まで出て、ひんやりと爽やかな空気を思い切り吸い込む。気持ちがいい。淡い藤色と水色が混ざったような空。いい天気になりそうだ。
目をぎゅうっとつぶって、うーんと気持ちよく伸びをしていたら、背後からたったったと足音が近づいてきて、
「おはよう」
と言いながら若い男の人がジョギングで通り過ぎていった。
「おはようございます」
その背中に言って、由はへえーと思った。
そうか、大学なんだもんな。朝ジョギングしたりする学生さんたちなんかも結構いるのかもしれない。何となく、魔法の勉強をする人たちとエクササイズとか筋トレとかいうものが結びつかない感じもするけど、彼らだって普通の人間なんだもんな…。
迷子にならないように、目印になるものを記憶しながら石畳の道を歩いていく。思った通り、やっぱり何人かのジョガー達やウォーカー達とすれ違った。若い人たちばかりではなく、中にはおじいさんやおばあさんもいた。
研究者らしいおじさん二人が、何やら議論しながら腕をふりふり早足で歩いているのにも出くわした。意図したわけではなかったけれど、歩くスピードが同じくらいだったので、分かれ道に来るまでしばらく付かず離れずのところを歩くことになった。
魔法が行われてからその魔法が実際に働き始めるのにかかる時間についての話をしているらしく、ナントカの二乗イコールナントカとか、でもナントカの法則を応用してナントカの値をナントカに置き換えれば、とか言っている。片方の人が短い間に何度も「それはしかしね、滑稽にすぎるよ」と言うのが聞こえてきて、由は思わずひとりでニヤニヤしてしまった。口癖というのは、本人も気づかずに何度も繰り返すから口癖というのだろう。はたから聞いているとその繰り返しが可笑しい。
その二人とも別れ、しばらくいったところで大きな庭園のようなところが見えてきた。道に面して、入り口らしい小さな門がある。周囲は低い生垣で囲まれているだけで、またごうと思えばまたげそうだ。しかしやはり一応門があるのだから、そこから入るべきだろうと思い、門に近づく。
緑の葉の茂ったアーチの下の小さな門は、どう見ても正門という感じではなく、関係者だけが使う裏門みたいなものなのかもしれないなと思ったけれど、関係者以外立ち入り禁止、なんて札もついていないので、由はそっと門を開けてみた。アーチの緑の葉に隠れるようにして咲いている白い鈴のような花が、かすかにチリチリと鳴った。
庭園の中にはあちらへこちらへと曲がりくねった玉砂利の小道が続いていて、さまざまな植物が植わっている。向こうの方には何やら温室らしいガラスの屋根も見える。ずいぶん広いところだな、帰る道を間違わないようにしなくちゃと後ろを振り返ったら、誰かが玉砂利の道をやってくるのが見えた。由は目を凝らした。あれは…。
近づいてきたダンは、びっくりしたような笑みを浮かべて、
「早起きだね。おはよう」
「おはようございます」
「どこへ行くんだい」
「ぶらぶらしてるだけです」
「そう。僕はあそこに見えてる温室に用があってね」
ダンはガラスの建物を目で示した。にこりとする。
「一緒に行ってみない?」
「…用があるんじゃないんですか?」
「うん、大した用じゃない。ここの魔法植物研究学者にちょっと話を聞きにいくんだ。おいで。面白い話が聞けるかもしれないよ」
ほんとに僕が行ってもいいのかな。
ダンと一緒に歩き出しながら、由は首を傾げた。
温室は、まるでガラスでできた豪華な宮殿のような建物だった。汚れひとつなく、朝の光の中で輝いている。ダンは美しく装飾されたガラスのドアの取手に手を伸ばした。
「勝手に入っちゃっていいんですか」
「うん、中で会うことになってるから」
中は、由が思い描いていたのとは違い、洒落たロビーのようになっていた。ソファやテーブルや椅子があちこちに並んでいる。温室に入る手前の部屋みたいなものかな、と由が辺りを見回していると、
「ジョー」
薄暗い奥の方に向かってダンが声をかけた。
椅子を引くかすかな音がして、コツコツという靴音と共に大きな鉢植えの木の陰からすらりとした女の人が現れた。
「ダン」
「久しぶりだね」
「ほんと」
凛とした微笑みを浮かべて近づいてきたジョアンナは、由に気づいて少し驚いたように目を見開いた。
軽いハグの後、ダンが由を振り返る。
「由、姉のジョアンナだ。ジョアンナ、こちらは由。ジャンの親友なんだよ」
一瞬ジョアンナの顔に動揺が走ったように見えたけれど、すぐににこりとして由に手を差し出した。
「はじめまして」
「はじめまして」
二人が握手し終わると、今度はダンがジョアンナの方へ手を差し伸べた。
「はい、これ」
日に焼けた長い指が、小さな茶色い皮の巾着袋をぶら下げている。
ジョアンナが受け取って、袋を開いた。
「……」
俯いた顔の表情は、由にはよく見えなかった。
「昨日、フェリの家に行ってきたんだ」
「……」
「残念ながらフェリには会えなかったけどね。サッカーの合宿中だって」
「……」
「ジョーはどこでフェリと知り合ったの」
ジョアンナは小さく笑ってため息をついた。
「…P市で。二年少し前にね。植物園のベンチで、お友達何人かと来ていたあの子が、盛大にジュースをこぼして服を濡らしてしまったの。拭くものがなんにもなくて困っているようだったから、お使いなさい、ってハンカチを渡したわ。こっちを見上げた顔を見てびっくりした」
ダンが笑う。
「僕も写真を見て驚いた。お母さんにそっくりだもんね」
ジョアンナも頷く。
「とても礼儀正しくお礼を言って、ハンカチをちゃんと洗って返したいから住所を教えてほしいって。だから、この辺の者じゃないし、ハンカチのことは気にしないでいいと言って、立ち去ったの。次にP市に行ったのは三ヶ月後くらいだったけど、なんとなくまた植物園に足を向けてしまった。そうしたら、ばったり。その時は一人で来ていたわ。そして急いでリュックサックのポケットを開けて、もしかして会えるかもしれないと思ってたって言って、きれいに洗ってアイロンをかけたハンカチを返してくれた。ずうっと持ち歩いていたらしくて、少し皺になっていたけど」
ジョアンナはちょっと笑って、
「あの子は訊かれもしないのに自分のことを色々話してくれたわ。あの顔だけでも十分だったけれど、話を聞いてフェリだと確信できた。なんだか…とても不思議だった。あの子が生きていて、しかも向こうの世界にいたということももちろん不思議だったけれど、それ以上に、私にとっては、…アリッサの子供で、お母さんと同じ顔をしている子が、あんなふうに打ち解けてニコニコして、私にいろんなことを話してくれて…私に懐いてくれてるっていうことがね。私は自分のことはあまり話さなかったわ。ただ、英国に住んでいて、ここへはたまに仕事でくるのだと話した。あの子はそれ以上は何も訊かずに、自分の住所を教えてくれて、またこっちに来たらいつでも連絡してください、って言った。また会いたいです、って。
とても嬉しかったけど、あまり親しくならない方がいいような気がした。私の本当の身元を明かすわけにもいかないもの。そのうち、ジャンの実験事故のことを知ったの。詳しいことまでは知らないけれど、同僚がどこからか聞いてきて…実験倫理についての規則を云々する会とか、そういう筋からだったと思うわ。それで、この石をフェリにあげたいと思うようになったのよ。ジャンが…亡くなってしまったのなら、フェリにあげていいはずでしょう。エレインに連絡を取ろうかどうしようか、ずいぶん長いこと迷ったわ。でもあの人とはアリッサ達の事故の後、喧嘩してしまったし…。
躊躇しているうちに時間が経ってしまった。あの植物園には何度か行ってみたけれど、フェリには会えなかったわ。でもこの前…一週間くらい前に行った時、ようやくまた会えたの。しばらく会わなかったうちに、背も伸びて、少し大人びてたわ。でもその大人びてきた子が、寂しそうな顔をして、最近自分の本当の家族のことをよく考える、会えるものなら会いたい、なんて言い出して…。なんでも、そういう映画を見たとかでね。それで…」
「それで、あんな人騒がせな手紙を出したってわけ」
ダンが、わざと大袈裟に呆れ果てたと言わんばかりの顔をして、首を振った。
ジョアンナは開き直ったように、
「ええ、そう。石が代々女性に受け継がれているのはもちろん知ってるわ。でも、あの子にあげたかったのよ。それにエレイン達はあの石が大事なものだって知っているから、ただ送りつけたりはしないで、自分達で手紙の住所に石を持っていくだろう、そうすればもしかして…フェリが誰かわかって…全てうまくいくんじゃないか、って思って…。自分に熟考する暇もためらう隙も与えず、エイッとやってしまった。運を天に任せて」
由の記憶の中で、違う声が唱和した。
運を天に任せて。
ダンは苦笑いした。
「…覚えてるよ。ジョーは昔からたまに、らしくもなく衝動的に何かをやっちゃうことがあったよね。でも、ジョー、あんな手紙を書く前に、お気に入りのフェリのことだけじゃなくて、あの手紙のせいで辛い思いをする人たちがいるってことをね、きちんと考えるべきだったよ」
ダンの口調が俄に厳しくなって、ジョアンナが少し驚いたように目を見開いた。
「ジャンがもしかしたらどこかで生きているかもしれないって望みを捨てきれないでいる人たちにとって、特にここにいる由にとって、今回の件がどれだけ…」
由ははっとして慌てて遮った。
「ダン、いいんです、そんな」
「よくないよ。ジョー、由はね、事故の時ジャンと一緒にいたんだ。一緒に薬を作り、一緒に飲むはずだったのが、飲み遅れて、目の前で親友が光の炸裂と共に消えた。自責の念と悲しさで、辛くてどうしても耐えられなくて、記憶の封印の魔法をやった。生きていくためにはそのままにしておくのが一番良かったはずなんだ。なのにあの手紙が来たから、すわ一大事ってことで記憶を解放して戻ってきた。そうしたら手紙は偽物で、そこにいたのはジャンじゃなくてフェリだった。今、由がどんな辛い思いをしてると思う?十五歳だよ。ジョー。中学生だ。自分が何をしたかわかってる?」
ジョアンナは真っ青になって俯いた。ダンは静かに続けた。
「エレインやロバート、それから二人の娘さんのことだってそうだよ。ジャンは三人の大切な家族だった。息子であり兄だった。彼らの気持ちを考えなかったの?」
「……」
「昨日、フェリの家で手紙の封筒を見た時、すぐにわかったよ。この手紙はジョーが出したんだって。あの封のところのJっていう字。いつもやってたものね」
由は息を呑んだ。
そうだったのか…。
「…気がつかなかったわ」
ジョアンナが低い声でつぶやいた。
「…無意識にやっちゃったんだろう。習慣ってのはそういうものだ。偶然だけど、ジャンもね、いつも同じようにやっていたんだそうだよ。Jって。書き方も似てたらしい。だから由もロバート達も、余計、もしかしたら本当にジャンが生きていたのかもって期待してしまったんだ」
ダンはちょっと息をついた。俯いたジョアンナをじっと見つめる。
「ジョー、僕たちは…、僕たち家族は、なんていうか…あまりいい家族になれなかったよね。お母さんやアリッサはあんなふうだったし、だからジョーがいつも辛かったり怒ったりしてたのも今なら理解できるけど、あの頃の僕はわかってあげられなくて批判的だったし、お父さんも何を改善しようともしなかったし…。ジョーも僕も、十代の時に家を出て、以来ほぼ没交渉で…そのうちお母さんは亡くなり、お父さんは再婚してゴルドンなんてあんな遠くに行っちゃって、そしてアリッサが亡くなって…。だから僕たちは多分、家族がお互いを思い合う気持ちとか、そういうのを軽視しがちなのかもしれない。それだけじゃなくて、人と人との繋がりとか愛情とか友情とかもね。
悲しいことだよ。でもいくら自分にそういう人間関係がないからって、他の人たちのそういう気持ちを思いやることもせず、自分の都合のために傷つけるなんて…絶対にしてはいけないことだろう?いくら思いつきでエイッとやってしまったにしたって…、いい子のジョーらしくないな」
頷いたジョアンナの目から涙がこぼれた。
濡れた黒い瞳が、由の目をしっかりと捉えた。
「由…、本当に、本当にごめんなさい」
その眼差しと言葉は、深く、真っ直ぐに由の心に届いた。
謝罪に深さとか強さとかがあるのなら、それは由が今まで受けた中で最も深く、最も強い謝罪だった。
なぜだかわからないけれど、「ありがとう」という気持ちが由の心を満たした。
「…いいんです、ジョアンナ。辛いけど、やっぱり記憶を取り戻してよかったと思ってますし、それに…今回のことの前と後でジャンの生存の可能性の高さが変わるわけじゃない、むしろ、フェリの例を見れば、ジャンの生存の可能性は上がったと言ってもいいかもしれないんですから」
ダンが驚いたように由を見て、それから感心したように目を細めた。
「…強いね、由は」
由は顔を赤らめた。正直に言う。
「いえ、今のは昨日の夜、結花が僕に言ってくれたことなんです。でも、僕もそう思いたいなって思って…」
「そうか」
柔らかく微笑んだダンが、ジョアンナに説明する。
「結花は由のお姉さんなんだ。二人はとても仲がいいんだよ」
ジョアンナもまだ潤んだ目で微笑んだ。
「そう…。いいお姉さんを持って幸せね」
ダンがジョアンナににこりとしてみせた。
「僕も自分のことをそう思ってるよ」
ジョアンナの頬がピンク色に染まった。ハンカチで目元を押さえながら微笑む。
「…あなたも、私なんかにはもったいない弟だわ」
「僕も謝りたいことがあるんだ」
ダンが表情を改めてジョアンナを真っ直ぐに見た。
「収穫祭のイブの時…。あの時は本当にごめん。あれは本心じゃなかった。よく考えもせずに相槌を打ってしまったんだ。ごめんなさい」
近所のガラス窓を割ってしまった野球少年みたいに、深く頭を下げる。ジョアンナがおどけて、濡れた目をくるくるっと回してみせた。
「いいのよ。なんて言われたか、もう忘れてしまったもの」




