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Chap.15

 八月の半ばに、フェリとミュリエルとミュリエルの夫ステファンが、P市の『扉』を通り、バスと高速船と汽車の旅をして、アルバー村まで遊びにきた。

 人が魔法を持っているかどうかは、血液検査でもわかるが、『扉』を通れるか通れないかでもわかる。魔法を持たない人には、特別なブレスレットが貸し出される。それをつければ魔法を持つ人たちと同じように『扉』を使って世界間の移動ができるというわけだ。

 P市の『扉』のところで、迎えに行ったロバートに、まずブレスレットなしで試してみるかと訊かれたフェリは、ためらうことなく、

「三人ともブレスレットで行かせてください」

 と言ったそうだ。

 小川に続く木立の中の細い道を由と結花と三人で歩きながら、フェリがその理由を説明してくれた。

「だって、ママのお祖父さんはこっちの出身だっていうし、僕だってそうだけど、パパはそうじゃないから…。パパだけ魔法を持ってないって言われたら、かわいそうかなって思って」

 優しいんだな、と由は微笑んだ。

「でもこっちの出身だから魔法を持っていて、そうじゃなければ魔法を持っていないってわけでもないよ」

 結花が言うと、フェリは頷いた。

「うん、お母さんも魔法を持ってなかったって伯母さんと伯父さんに聞いたし…」

 フェリ達はアルバー村に来る前にカッサに数日滞在してダンとジョアンナにも会っている。再会が——特にジョアンナとの再会が——どんなふうだったのか訊いてみたい気持ちは山々だったが、由は黙っていた。

「それに雅代も結花も由も、こっちの出身じゃないものね。調べてみれば、向こうの人たちの中にも魔法を持ってる人たちが結構いるのかもしれないよね」

「自分が持ってるかは知りたくない?」

 結花の問いに、フェリは小さく笑ってちょっと首をすくめてみせた。

「…知りたいけど、…でももう少し後ででいいかなって思ってる。いろんなことが一度に起こって…消化不良になりそうだから」

 一呼吸置いて、フェリは少し遠慮がちに続けた。

「…ソフィは?魔法を持ってないの?」

 結花がくすっと笑って答えた。

「持ってるよ。人見知りなだけ」

 ソフィは初めに蚊の鳴くような声で挨拶をしただけで、あとは一同の会話にも加わらず、黙りこくってエレインの隣に座り続け、一緒に散歩に行かないかと三人に誘われた時も、目を合わせもせずに無言で首を振っただけで、すぐにエレインの後にくっついてキッチンに入ってしまった。初めて由と結花がこっちに来た時も同じだった。

「いつもはあんなじゃないのよ。そのうち打ち解けるから」

「そう。それならよかった」

 微笑んで前髪をかき上げたフェリの仕草がジャンと似ていて、由はどきりとした。急いで、目から入ってきた他の情報に注意を向ける。 

「そのブレスレット、ちょっと見てもいい?」

 由が言うと、フェリは左腕を上げて、ブレスレットがよく見えるようにしてくれた。

 細い銀色のブレスレットだ。細かな葉っぱの模様が連なるように彫り込まれている。

 あの木の葉っぱなんだろうな、と由は心の中で頷いた。

 フェリがしているもう一つのブレスレットは、あの日P市で結花と由がつけたのと同じ、淡い水色の石がぶら下がっている銀色のバングルだ。

「これ、両方とも、つけた後に手首のサイズに縮むじゃない?驚いてたら、ロバートが話してくれたんだけど、昔、このブレスレットが発明されて使われ出した頃は、そういうふうじゃなかったんだって。だから、サイズが大きすぎて抜け落ちちゃったりして、向こうの世界で紛失されたままになってるブレスレットがいくつもあるんだって」

 楽しそうに宙を見上げる。

「そういうのがアンティークショップとかebayとかで、ただのブレスレットとして売られてるかもしれないよね。魔法の力を持ったブレスレット…。向こうの世界で、何か思いもよらない不思議なパワーを発揮するかもしれない」

「物語みたい」

 結花が言うと、フェリが目をきらきらさせて言った。

「そういう漫画描いてみたいなって思って」

「漫画描くの?」

 フェリは恥ずかしそうに頷いた。

「まだそんな上手には描けないけど」

「すごーい」

 結花が声を上げる。

 結花は、イラストクラブの部員だった小学六年生の夏休みに、ナントカマンガ大賞に応募する!と張り切って、漫画原稿用紙だのつけペンだのインクだのスクリーントーンだのを買いこんできて、表紙と一ページ目を描いただけで挫折した経験の持ち主だ。ただイラストを描くのと、漫画を描くのとでは大違いなのだと思い知ったという。以来結花は、ことあるごとに

「漫画描ける人ってすごいんだよ」

 と人に熱く語るようになった。

「どんな漫画描いてるの?」

「今描いてるのはサッカーの話」

「そうか、サッカーやってるんだもんね。じゃ、キャプ翼とか知ってる?」

「もちろん!」

 楽しそうに話しているフェリの横顔に、由はどうしてもジャンの面影を探してしまう。だからなのかもしれないけれど、たまにちらりと「あ」と思わされる瞬間がある。笑って目を見開いた時の顔、人の話を真剣に聞いている時の顔、うーんと考え込んでちょっと目を細めた時の顔。

 不思議だな。

 ジャンとよく歩いたこの道を、今フェリと歩いている。赤ちゃんの時に死んでしまったと誰もが思っていたフェリと。

 フェリとこうしていると、なんだか、ジャンもどこかでこうしているかもしれないな、と思えてくる。新しい友達と楽しくおしゃべりして、幸せな日々を送っているような気がしてくる。


 あの手紙がジャンからではなかったとわかった後、やはりしばらくは由にとって辛い日々が続いた。けれど、結花が言ってくれたことのおかげか、よく言われるように時が癒してくれたからなのか、昨年の事故直後のあの一ヶ月よりはずっとマシだった。

 「僕のせいだとは思ってないよ」

 一週間ほど前の夕方、エレインに、まだあの事故を自分のせいだと思っているのかと問われて、由は慎重に言葉を選んで答えた。お腹に赤ちゃんがいるのだ。気持ちを騒がせてはいけない。でも嘘はつきたくなかった。

「僕のせいで事故が起きたとは思ってない。でも、僕にも責任があったのは事実だし、その考えを変える気はないよ。そして何より…、僕もジャンと運命を共にするべきだったと思ってる。それが死であろうと、他の世界への移動であろうと、なんであろうと」

 エレインはじっと由を見つめ、しばしの沈黙の後、ぽんぽんと静かにテーブルの上の由の手を叩いた。

「ではね、あなたがジャンと運命を共にしなかったことを、私たちがどんなに喜んでいるか、それを是非覚えておいてちょうだい。ジャンもそう思っているはずよ」

 最後の一言が余計だ、と思ったけれど、由はぐっと言葉を呑み込んで、

「わかった。ありがとう」

 とだけ言って、すみれ色の夕暮れの中へ出ていった。虫の音に混じって、書斎の窓から、ロバートが電話で話している声が微かに聞こえてくる。

 ジャンがどう思っているかなんて、わかるはずのないことをああやって言われるのが由は心底嫌いだった。ジャンのことを勝手に決められるのは嫌だった。

 ジャン。

 会いたい。

 一番星の光る空を見上げて、小さい子供のように素直にそう思ったら胸が詰まった。

 I miss youという言葉の意味が、初めて本当にわかった気がした。

 無事でいてほしい。元気でいてほしい。幸せであってほしい。

 でもそれ以上に、会いたい、と思った。

 I miss you.

 君の存在が欠けてる。僕の世界にあるはずの君の存在が欠けてる。

 会いたいよ、ジャン。

 運命を共にすべきだった、じゃない。

 運命を共にしたかったんだ。

 君と。


 夏休みもあと数日で終わるという日の昼前に、それは起こった。

 由が、水槽に毎分何十リットルの水が入ろうがそんなの知ったことか馬鹿馬鹿しい、と思いながら数学の問題を解いていると、俯いていた視界の右上隅に、ふっと何かが光った。

 びくっとして首を斜め後ろに引き、その光るものに焦点を合わせる。

 直径三センチメートルくらいの淡いピンク色の光の球体が、机の前に座っている由の目の高さくらいのところに浮いている。見ているうちに光はどんどん薄れていき、最初に現れてから五秒くらいでふっと消えた。と思ったら、光の球体があった位置から、米粒くらいに小さい白いものが、ぽとっと小さな音を立ててノートの上に落ちた。

 …なんだ?

 小さく丸まった紙のようだ。

 指先でちょんと触れてみてから、そっとつまみ上げる。

 随分薄い紙のようだ。両手の親指と人差し指を使って、破らないようにゆっくり広げてみる。

 黒い小さい文字で、こう書いてあった。

「テスト98」

 どきんとした。

 実験のテスト。実験のテストだ。絶対にそうだ。

 薬作りでもお馴染みだった。「テスト1」「テスト2」…。実験記録ノートに並んだテストナンバー。

 ジャンだ。

 それは直感だった。

 あの不思議な光。魔法に違いない。ジャンがコンタクトを取ろうとしてる。98回目のテストで成功したんだ。きっとそうだ。

 ああ、成功だって、届いてるって、どうやって伝えたらいいんだ!

「…ジャン。聞こえる?」

 小さい声で言ってみる。

「テスト98って紙、届いたよ」

 何も起こらない。

 由はノートの端を小さくちぎって、極細ペンで

「テスト98成功」

 と書き、小さく小さく丸めて、さっき光の球体が浮かんでいた辺りに持っていってみた。空間を探る。…何も手がかりはない。

 くそっ、どうしたらいいんだ…。

「ご飯よー」

 階段下からお母さんの声が掛かった。由は思い切り舌打ちした。こんな時に!

 指先で空間を探り続けながら、右や左を見回す。何か使えるものがないか…。そうだ、コンパスとかは?

 ノックの音がする。

「由、ご飯だって…」

「結花!コンパス持ってる?」

「え?」

「入ってきてよ、早く!」

 ドアが開いて、結花が顔を出す。

「何、どしたの?」

「ジャンからメッセージが来たんだ!」

「えっ」

「コンパス持ってない?円描くやつじゃなくて、ほら、北とか南とかのやつ!」

「そんなの持ってないよ。スマホのアプリは?」

「あっそうか!それ出して!」

「なんでコンパス?」

「わかんない。もしかしてって思って」

 何が起こったかを早口で話して、紙切れを見せる。

「でも光の球そのものが消えてるんだから、今更探しても遅いんじゃない?」

 そう言いながらも結花は机の隅にあった由のスマホのコンパスを開け、由が探っている辺りを調べ出した。

「…なにも反応しないよ。それより、こんなふうに空間を掻き乱してたら、次のメッセージが届く邪魔になったりしない?」

 由ははたと腕の動きを止めた。

「…それあるかも。ああ、もうどうしたらいいんだよっ」

「落ち着いてったら。こっちが何か送らなくても、ジャンは手応えで成功したってわかってるかもしれないよ。たとえば、失敗だとメッセージが戻ってきちゃうとかさ」

「じゃ、ただ待ってろってこと?」

「他に思いつかない。由は?」

「んー、ううーん…」

「ちょっと二人ともー。ラーメンのびちゃうわよー」

「結花、先行ってて。で、食べ終わったら交代して」

「ここに持ってきてあげようか?」

 お願い、と言いかけて、頭の中に浮かんだ映像に由はぞっとした。

「いや、危ないからだめ。メッセージがラーメンの中に落ちたら困る」

 紙とインクと丼いっぱいの液体。絶対だめだ。取り返しがつかない。

「なるほど。了解、じゃ、急いで食べてくるね」

 どきどきしながら由はメッセージを待った。

 ああ、すごい!本当に本当なんだ!ジャンからメッセージが来るなんて!…もちろん、ジャンとは書いてないけど、でもだって他に考えられないじゃないか!

 しばらく待ったけれど、光る球体は現れない。由は何度か空間を探ろうと手を伸ばしかけ、結花の言ったことを思い出しては手を止めた

 やがて階段を駆け上がってくる足音がして、結花が戻ってきた。随分早い。かっこんできたらしい。

「交代」

「ありがと。メッセージ来たらすぐ知らせて」

「of course」

 由は階段を駆け降りてダイニングに飛び込んだ。

「遅かったわねえ。ラーメンのびのびよ、もう」

「うん、ちょっとね。いただきます」

 食べ始めた由は、次の瞬間声を上げ喉を詰まらせかけた。さっきと同じ位置、ラーメンの上に俯いた視界の右斜め上の隅に光が現れたのだ。慌ててラーメンの丼をうんと左の方へ移動させながら、

「結花ーっ。早く来て!」

 階段を駆け降りてくる足音を聞きながら、由は薄いピンクに光る球体の下に両手をお椀のようにして差し出した。

「なんなの、一体…」

 お母さんの声。

 ポトリ、と丸まった紙が手で作ったお椀の中に落ちる。さっきのよりも大きくて硬い。大きな豆粒くらいだろうか。ぎゅうぎゅうに圧縮でもされたように畳まれた白くて薄い紙。

 由と結花は顔を見合わせた。


 手紙は、ものすごく薄い紙に、極細の線で、うんと小さい字で書いてあった。


 「今日、98回目の実験が成功したのが判明したので、まだ信じられないような思いで、急いでこの手紙を書いている。

 まず説明しておくと、この世界とそっちの世界の間の空間の状態というのは一定の間隔で変化し続けていて、その変化のたびに空間の構成物質もその並び方のパターンも変化する。構成物質や並び方のパターンが変われば、こっちがメッセージを送るのに使う数式フォーミュラも変えなくてはならない、しかも構成物質の種類もパターンのバリエーションも山ほどあって、まだとてもじゃないけど公式なんて作れない。つまり、変化が起こるたびに、こっちは当てずっぽうで数式をいくつもいくつも試しているんだ。今回成功したのは奇跡としか言えない。変化が起こる間隔だけは49時間とわかっていて、あと一時間くらいしか残っていない。とにかく急いで書いてしまおう。

 ああ、それから、そっちからの返信は不可能だと思う。もちろん何か思いついたら試しみてくれてもいいけど。

 こんな小さい字でごめん。まだまだ実験段階だから、できるだけ送るものの体積を小さくしてるんだ。使ってるのは郵便屋用の紙とペンとインク。郵便屋というのはこっちの世界にいる鳥のこと。特殊な場合にその鳥がメッセージを運ぶ。それ用の、できるだけメッセージを軽くできる紙やインクというわけだ。

 僕は魔法科学の発達した世界に来ている。

 あの実験の後、気がついたらある家のベッドに寝かされていた。怪我も何もなかったけれど、丸一日ほど意識がなかったらしい。僕を見つけてくれたのは一人で農業を営んで暮らしているアハトフさんという初老の男の人で、よく面倒を見てくれた。僕は記憶がないふりをしてアハトフさんから色々情報を聞き出し、自分が別の世界、それもどうやら僕たちの世界とは行き来のない世界に来てしまったらしいと知り愕然としたけれど、来てしまったものは仕方がない。記憶喪失のふりを続けて、別の世界から来たことは誰にも言わないことに決めた。今まで誰にも話していない。

 さて、アハトフさんから聞いたことで、一番ショックだったのは、時間についてだった。

 この世界の時間の経ち方は、僕の世界や由たちの世界に比べて二十四倍速い。ここの一日がそっちの一時間にあたる。

 この世界は他のどの世界とも正式な行き来がない。ただし、由たちの世界からは、意図せずに人々が穴に落ちるみたいにしてやってくる。これは大昔からのことで、だからこちらの人々はそれに慣れてるし、彼らを客人と呼んで大切にもてなす。そして、客人たちが向こうの世界に帰りたい時には、いつでも魔法を使って彼らを送り返すことができる。ただし、帰ってしまったらそれっきりだけどね。また来ることは偶然でない限り出来ない。

 とにかく、それだからこっちの世界では由たちの世界のことはよく知られている。時間の経ち方の違いについてもだ。だからこの点については間違いない。そして僕の世界と由たちの世界の時間の経ち方は同じだから、つまり僕は元いた世界の二十四倍の速さで歳をとるってわけだ。もっとも、そんなふうに感じるわけじゃないよ。ただ、事実としてそうだというだけで、毎日がチャカチャカと早送りに過ぎていく、なんていうことではない。普通に暮らしている。

 僕は、今四十四歳だ。アハトフさんの養子にしてもらって(だからこっちではずっとジャン・アハトフだ)、魔法大学を卒業し、魔法化学の研究を続けている。二年ほど前からフリア魔法大学というこの世界最高峰の魔法大学で、著名な魔法発明学者のエミル•ブリュートナーとの共同研究として、由たちの世界にメッセージを送る方法を開発しようと試みてきた。

 この世界の魔法発明学者たちは、ずっと昔から、由たちの世界との行き来を可能にできる方法というのを発明しようと研究してきた。ここには『扉』はないからね。これは大変難しいそして危険な研究で、多くの魔法発明学者たちが、由たちの世界に行くための実験で命を落としたり行方不明になったりしてきた。それで、ある時政府がその研究を禁じたんだ。だから今ではその研究は行われていない。タブーなんだ。でも、メッセージを送る、つまり世界間を人間ではなく物質が移動することに関する研究は禁止されていない。

 時間がないと思うと、焦ってしまってうまく書けないな。わかりにくかったらごめん。とにかく書き飛ばす。

 さっき書いたか忘れたけれど、由たちの世界からの客人の中には、自分達の世界に戻らず、こっちの世界に移住する人達もいる。その多くは、魔法に魅せられた人達らしい。この世界では、魔法は習得するものであって、血の中に魔法を持っているかどうかは関係ない。だから誰でも魔法を学ぶことができる。もっとも、才能のあるなしっていうのはあるけれどね。誰でも学べるけど、誰でもできるようになるものでもない。楽器の演奏と同じだ。

 エミルのところに来た客人も、ここに移住することを選んだ。まさに魔法の天才でね、りょうっていう名前の日本人の男の子だ。二年前に初めて会った時はまだ十一歳だったんだけど、次の年にはもうフリア魔法大学への入学を許可された。すごい努力家で、魔法を学ぶのが楽しくて楽しくて仕方がないらしい。時々僕たちの実験にも参加するんだけど、もう僕たちと対等に議論ができるし、新しい提案なんかもしてくれるんだから、大したものだよ。

 由とちょっと雰囲気が似てるんだ。向こうでは水泳をやってたってのも同じ。初めて彼に会った時、思わず日本人かって訊いてしまった。時空のトリックか何かで、初めて会った頃の由を見てるような変な気がしてクラクラしたよ。

 由。あの実験の時、怪我はなかっただろうか。何が起こったか僕にはわからないけど、僕が他の世界にまで飛ばされたのだから、かなりの衝撃波があったんじゃないだろうか。何か後遺症が残ったりしていないことを心から願っている。

 こっちではもう三十年経ったけど、そっちではまだ一年三カ月ってところだよね。事故のショックとか、僕がいなくなったショックとか、まだそういうもので苦しんでいるかもしれない。もしそうだとしたら、このメッセージを読んで、どうか苦しみから解放されてほしい。僕は無事だし、元気だし、好きな研究も続けられて、幸せにやっているから。結婚はまだしてないけど、今付き合っている人はいる。由は例のクラスメイトの女の子とうまくいっている?愛の告白がうまくいくよう祈ってるよ。焦りは禁物だ。相手の気持ちも、そして自分の気持ちも大切に。

 結花も元気にしているだろうか。カイルとのことはどうなったかな。

 雅代も相変わらずテキパキ有能にやってるかな。まだ研究には戻ってないの?

 エレインもロバートもソフィも元気だろうか。

 ああ、あの家のことは、三十年経った今でもよく覚えている。不意に、エレインの仕事部屋の匂いとか、二階のあの北の大戸棚の匂い、ロバートの書斎の匂いなんかが鼻腔の奥に蘇るような時があるし、自分の部屋のベッドの感じとか、窓からの眺め、そうそう、エレインが作ってくれる朝ご飯の匂いとか、ローストポークのサンドウィッチの味、りんごと胡桃のケーキ、庭にはためいてる洗濯物、夕方の光の中の草地のラベンダーたちの眺め、それにあの川岸の小屋…みんなはっきりと覚えている。

 たぶん、二度と帰れないし、二度と会えないだろう。でも僕は後悔していない。由、このことをよく覚えておいて。僕はあの実験をやったことを後悔していない。こうできればよかったな、ということはもちろんあるよ。例えば、由と一緒にドゥマに行って、一緒にルキになれればよかったな、とかね。でもそれは後悔とは違う。もう少し甘やかな、憧れのようなものだと思う。自分の世界にとどまって、大好きな人たちに囲まれて、幼い頃からの友人たちと一緒に成長し、笑い、悩み、励まし合い、成功を祝い合うのも、きっととても幸せな人生だっただろうと思う。でも、こっちの世界に来て、過去から切り離されて、一人になって、時には寂しいと思うこともあったけれど頑張ってきたこの人生も、自分らしくて僕は気に入ってる。

 今、ふと、ガウンを着てルキのダイアデムをかぶった由が見えた気がした。その頃には、僕はもうとっくに死んでるから、例え将来、こっちの世界からそっちに、いつでも好きな時にメッセージが送れるようになったとしても、由の卒業式にお祝いの言葉を送ることは出来ない。だから今ここに、僕の心からのお祝いの言葉を書いておく。卒業式の日に、改めて読んでくれ。


 おめでとう、ルキ。汝の技の常に善く使われんことを。


 こっちの世界では、ルキみたいな称号はないんだ。さっきも書いたけど、ここでは魔法は習得する技術だし、魔法を使う人たちは「魔法の使い手」であって「魔法使い」ではない。僕は自分がそんなことにこだわりを持っているとは思っていなかったけれど、やっぱり身贔屓なのかな、僕たちの世界の魔法のあり方や、ルキという称号の持つ凛とした高貴さが好きだなと思う。僕は魔法化学者にはなったけれど、ルキにはなれなかった。これはやっぱりちょっと残念だったかな。

 そろそろ時間が近づいてきた。これだけ書いたのに時間に間に合わなくて送れなかったなんてことになったら嫌だから、この辺で切り上げるよ。

 もっと時間があったら他のみんなにも一通ずつ書いたんだけどな。

 エレイン。僕を育ててくれて本当にありがとう。こんなふうにお別れすることになってごめんなさい。 

 ロバート。いつも僕を見守ってくれている眼差しを感じていました。今もです。

 ソフィ。元気で。由だけが男じゃないよ。幸せになって。

 結花。君は素晴らしく優秀なルキになることと思う。最優等目指して頑張れ。

 雅代。あなたはきっとまた研究に戻ると信じています。ご活躍をお祈りしています。

 そして由。

 君と一緒に研究と実験に没頭したあの二年半は、僕の人生で一番輝かしい日々だった。会えなくても、今も君は僕の一番の親友だと思っている。どうか元気で。いつの日か、もしまた会えることがあったら、互いの研究について存分に語り合おう。最優等の卒業制作の話を聞けるのを楽しみにしてるよ。

 …そう、今書いていて気がついたけど、実は心のどこかで僕はまだ諦めていないようなんだな。もしかしたら、みんなにまた会えることがあるかもしれないってね。

 エミルが教えてくれた魔法発明学の基本の一つにこんなのがある。「道はいくつもある。藪の中にも水の中にも。見つからないなら作ればいい。」もしかして、僕か、由か、それとも結花か雅代が、それとも他の誰かが、僕たちの再会を可能にする日が来るかもしれない。

 その日が来ると信じて、これからも研究に全力を注ぐよ。

 では、元気で。


 僕の愛する現在と未来のルキたちへ

                        ジャン・N•スコット

 読んでくださってありがとうございます。

 2003年頃にできたプロットです。その頃海外のある作家のインタビューを読み、初めて「物語を書き始める前に細かいことまで全て決める」というやり方を試してみたのですが、決まってしまっていることを書くというのは大変大変つまらなくて(笑)続きませんでした。しかしそこで作り上げた世界は気に入っていたので、その世界と主な設定はそのままに、昨年違う物語を書いてみたのがこの作品です。

 「9日間」「はるのものがたり」「春の音が聴こえる」とつながっていますが、全部読まなければ意味不明というわけではもちろんなく、例えば「9日間」の世界と「魔法使いたちへ」の世界の汽車がなぜ似ているのかは「はるのものがたり」を読めばわかるし、「魔法使いたちへ」にちらりと出てくる四季の世界については「春の音が聴こえる」で読める…etc.という程度です。あとは人々のつながりですね。それぞれがそれぞれの番外編のような。興味のある方は覗いてみてください。

 最近書いているのは現実世界しか出てこない物語なのですが、「魔法使いたちへ」を手直ししながら、私はやっぱりこういう世界が好きだなーと思いました。

 カッサの『扉』は八つ。ドゥマの『扉』は一つ。そのうちまだ物語の語られていない世界の扉は二つ。どんな物語があるのか、書いてみるのが楽しみです。


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