その男、ハグをする1
『第七章:不意打ちのバックハグは、女の警戒心を一撃で溶かす究極の魔法である。完全に気配を殺して背後に回り、力強く拘束せよ。逃げ場のない愛の牢獄の中で、女は歓喜の悲鳴を上げるだろう』
――幻の奇書『これ一冊でモテる!恋愛完全攻略』第128ページより抜粋
王都の地下に広がる広大な古代遺跡、『黒き月の迷宮』。
松明の薄暗い灯りだけが頼りのその空間で、A級冒険者のシーフ、ノワールは冷や汗を流しながら罠の解除作業に没頭していた。
「……よし、これで魔力線は切断できたわね」
ノワールは、裏社会でもその名を轟かせる凄腕の盗賊だった。
彼女の持つ『気配察知』と『隠密』のスキルは王国でもトップクラスであり、背後を取られることなど、彼女の冒険者人生において一度たりとも存在しなかった。
今日は偶然ギルドで居合わせたS級冒険者、アーヴィン・クロムウェルとの合同探索任務。
罠を解除し終え、ふう、と息をついたノワールの背後に、一切の気配なく『巨大な影』が迫っていた。
ズンッ! という重い衝撃と共に、鋼鉄の万力のような太い両腕が、ノワールの華奢な身体を背後から完全にホールドした。
「グエッ……!?」
ノワールの口から、カエルのような悲鳴が漏れた。
ロマンチックな『バックハグ』などでは断じてない。
どう見ても『熟練の暗殺者が標的を無力化するための完全な捕縛術』だった。
「ちょっ、まっ……!? あんた何やって……っ、痛い痛い痛い! 肋骨! 私の肋骨が粉微塵になるぅぅぅ!!」
必死にタップを繰り返すノワール。
しかし、背後から彼女を拘束しているアーヴィンは、無表情のまま内心で大いに焦っていた。
(よし、完璧に気配を殺して背後を取れたぞ! だが、女性の身体は柔らかすぎる! ほんの少し力を入れただけで悲鳴を上げている! これが指南書にあった『歓喜の悲鳴』というやつか!?)
罠解除で神経をすり減らしていたノワールを『労う』ため、彼は律儀に指南書の第128ページを実行したのだった。
S級冒険者のフルパワーによる『気配遮断』は、物理法則すら無視した完全なステルス性能を発揮していた。
「歓喜じゃねえよ!! 物理的な悲鳴だよ!! 早く離せこの筋肉ダルマ!! ギブ! ギブだってば!!」
ノワールの的確なツッコミと命の危機を感じ取る必死の抵抗により、アーヴィンは(おっと、少し刺激が強すぎたか)と、ゆっくり拘束を解いた。
解放されたノワールは、地面に崩れ落ちてゼーゼーと荒い息を吐いた。
「……あんたねぇっ!」
涙目のノワールが、アーヴィンをキッと睨みつける。
「気配ゼロで背後から近づいて、S級の腕力でホールドって……それただの暗殺だからね!? なに無表情でロマンチックな雰囲気出そうとしてんの!? 死ぬかと思ったわよ!」
怒りに震えていたノワールの心臓は、別の理由でも激しく警鐘を鳴らしていた。
(……って、よく考えたら、私、この最強のS級に完全に背後を取られたのよね……。しかも、背中に当たったあの分厚い胸板……っ。それに、変に男らしい、いい匂いしたし……)
暗殺術レベルの隠密スキルを見せつけられた冒険者としての敗北感と、背中に残る圧倒的な『雄』の感触。
ノワールの顔が、怒りとは別の熱でみるみるうちに真っ赤に染まっていった。
「べ、別に! 罠解除の労いなら、言葉だけで十分なんだからね! だいたい、あんな力強く抱きしめられたら……勘違いするバカな女がいるかもしれないでしょ! 気をつけなさいよね!潰されてむしろ死ぬわ!」
顔をプイッと背けながら、典型的なツンデレの反応を示すノワール。
その言葉を聞いたアーヴィンは(なるほど、言葉の労いか)と解釈し、いつもの万能の呪文を低く囁いた。
「……お前、面白い女だな」
「はぁ!? だから意味わかんないし! 何が面白いのよ! ……バカァッ!」
ノワールは耳まで真っ赤にして、パタパタと迷宮の奥へ逃げていってしまった。




