その男、顎クイをする
『第六章:顎クイは視線と魂を縛る鎖である。指先一つで女の顎を跳ね上げ、視線を逃さず固定せよ。抵抗を許さぬその圧倒的な強引さに、女は本能から屈服する』
――幻の奇書『これ一冊でモテる!恋愛完全攻略』第105ページより抜粋
それは王城で開催された、近隣諸国との親善パーティーでの出来事だった。
豪華絢爛なシャンデリアの下、着飾った貴族たちが優雅に談笑する中、会場の空気が一瞬にして凍りつく出来事が発生した。
「……あなたが、人間最強と謳われるS級冒険者? 呆れたわ。ただの図体のデカい男じゃない」
アーヴィン・クロムウェルの前に立ちはだかったのは、エルフの国から親善大使としてやってきたハイエルフの王女、エルティリアだった。
透き通るような白磁の肌に、新緑を思わせる翡翠の瞳。誰もが見惚れる絶世の美貌の持ち主だが、その瞳には人間に対する明確な侮蔑の色が浮かんでいた。
彼女は長寿なエルフの中でも天才と称される大魔導士であり、強大なプライドを持っていた。
周囲の貴族たちが「あ、あのS級に喧嘩を売るなんて……!」と青ざめる中、アーヴィンは無言で見下ろしていた。
冷酷なまでの無表情。一切の感情を読み取らせないその瞳は、絶対者の貫禄を放っていた。
だが、彼の脳内はいつも通り、絶賛大炎上中だった。
(な、なんだこの美しい生き物は!? 耳が長い! 肌が綺麗すぎる! しかも顔が近い! 俺が人間代表として舐められたら、最悪の場合、種族間戦争に発展するのではないか!?)
冷や汗をかく機能すら停止したアーヴィンの脳細胞は、またしてもあの指南書のページをめくった。
(落ち着け、俺! こんな高慢な態度を取る女性への対処法も、師匠の本に書いてあったはずだ! 第105ページ……『顎クイ』だ!)
アーヴィンは一筋の光を見出していた。
相手の顎を指先で軽く持ち上げ、自分だけを見つめさせる『顎クイ』。
それを実行すれば、どんなに気の強い女性でも本能的に屈服し、デレるはずだった。
(いくぞ。種族間の平和は、俺の指先にかかっている……!)
アーヴィンはゆっくりと、右手をエルティリアの顔元へ伸ばした。
素手でオリハルコンをへし折る、太く強靭な二本の指。それを、エルティリアの華奢な顎の下へ添える。
「な、なによ……気安く触らないで……っ!?」
エルティリアが不快げに眉をひそめた、次の瞬間だった。
「……こっちを見ろ」
アーヴィンは低く響く声と共に、指先を『クイッ』と持ち上げた。
――S級冒険者のフルパワーで。
「ヒャンッ!?」
エルティリアの体が、フワリと宙に浮いた。
アーヴィンの強靭すぎる二本の指が、彼女の顎骨を下から完全にロックし、そのまま彼女を軽々と空中に持ち上げてしまったのだった。
爪先が完全に絨毯から離れ、宙ぶらりんになるハイエルフの王女。
それはロマンチックな『顎クイ』などでは断じてなく、どう見ても『暗殺者が標的の首の骨を折る直前の絞め技』の構図だった。
(よし! これで視線は俺に固定されたな! 完璧なメソッドだ!)
アーヴィンは真剣な眼差しで、宙吊りになっているエルティリアを見つめていた。
一方、顎一つで全身を持ち上げられたエルティリアの脳内では、かつてないほどの『死の恐怖』と『未知の感情』が渦巻いていた。
(な、なんなのこの男は!? たった二本の指で私を完全に持ち上げている!? 指先に少しでも力を込められれば、私の首なんて簡単に吹き飛ぶ……! これが人間最強……圧倒的な、力の差……っ!)
魔法を詠唱する隙すら与えられない完全な制圧。
数百年生きてきた中で、誰にも屈したことのなかった高慢なエルフのプライドが、へし折られる音を立てた。
同時に、己の命を完全に握り、冷徹に見つめてくるアーヴィンの男らしい瞳に、彼女の心臓は狂ったように跳ね始めたのだった。
(ああっ……私より強い、絶対的な雄……っ! これが、本能からの屈服……!)
「あ、あぁっ……」
エルティリアの瞳から敵意が消え去り、代わりに熱を帯びた潤んだ視線がアーヴィンへと注がれた。
白磁の頬が、リンゴのように真っ赤に染まっていく。
その反応を見て、アーヴィンは(よし、デレたぞ!)と内心でガッツポーズを決めた。
彼はゆっくりとエルティリアを絨毯の上に降ろすと、いつもの決まり文句でこの外交的危機を締めくくった。
「……お前、面白い女だな」
「っ……! ぁ、アーヴィン……様っ」
膝から崩れ落ちたエルフの王女は、熱に浮かされたように両手で頬を押さえ、荒い息を吐いていた。
それを見下ろしながら、アーヴィンは(危ないところだった。愛読書がなければ国際問題になるところだ)と一人安堵の息をつく。
かくして、王女を物理的に宙吊りにするという暴挙に出たにもかかわらず、人間とエルフの間に強固な友好関係(愛人フラグ)が築かれてしまったのだった。
……これ収束できるかな。




