その男、雨宿りする
『第五章:突然の雨は天の恵みである。己の上着で女を包み込め。密着した肉体と暗闇が、女の理性を奪い去るのだ』
――幻の奇書『これ一冊でモテる!恋愛完全攻略』第82ページより抜粋
王都の空は、気まぐれだった。
少し前までの快晴が嘘のように、突如としてバケツをひっくり返したようなゲリラ豪雨が石畳を打ち据え始めた。
「きゃっ、すごい雨……!」
ギルドでの非番が重なり、偶然(アイラが数日前から入念に仕組んだ偶然だが)街を一緒に歩いていたアーヴィンとアイラは、慌てて路地裏の軒下へと駆け込んだ。
古いレンガ造りの軒下は狭く、二人が並んで立つと肩が触れ合いそうなほどの距離だった。
「濡れてしまいましたね……。あ、アーヴィンさん、タオルとか……」
アイラが上目遣いでアーヴィンを見上げる。
雨に濡れた金髪が肌に張り付き、薄手のブラウスからはほんのりと肌が透けていた。
普通の男であれば、ドキリとして顔を赤らめるか、紳士的にハンカチを差し出す場面だった。
しかし、アーヴィンの脳内では、またしても最高レベルの緊急アラートがけたたましく鳴り響いていた。
(まずい! 薄着のアイラが濡れている! しかも布地が透けて……いや、それよりこのままでは風邪を引かせてしまう! 女性の体はデリケートだと聞く! どうすればいい!?)
完璧なポーカーフェイスの裏側で、彼は猛烈な焦燥感に駆られていた。
彼の恋愛偏差値はゼロだが、仲間や守るべき者を思いやる心だけは正真正銘のS級だった。
そして、いつものように脳内の『指南書』へとアクセスする。
(思い出すんだ……! 雨の日のメソッド……第82ページ!)
――『己の上着で女を包み込め』
(これしかなかった……!)
アーヴィンは目を見開いた。
彼は、自身が羽織っていた漆黒のコート(※古代竜の皮をなめして作られた超一級の防刃・防魔アーティファクト)の裾をバサリと広げると、音速の身のこなしでアイラの頭からすっぽりと被せた。
「ひゃんっ!?」
アイラの視界が、突如として漆黒に染まった。
完全に光が遮断されたコートの中。
そこは、アーヴィンの丸太のような腕と、鋼鉄のように分厚い胸板が壁となってそびえ立つ、完全な密室だった。
(よし! これで雨風も、冷気も完全に防げるはずだ! 俺の体温で温めるんだ!)
アーヴィンは満足げに頷き、コートを広げたまま微動だにせず立ち尽くした。
雨が上がって彼女が完全に乾くまで、この体勢を維持するつもりだった。
一方、コートの中に閉じ込められたアイラは、かつてないパニックに陥っていた。
(な、なに!? 急に視界が真っ暗に……っ! しかも、この壁みたいに硬くて熱いものは……アーヴィンさんの体!?)
息をするたびに、大人の男の香りと、むせ返るような熱気が鼻腔をくすぐる。
身動き一つ取れないほどの密着具合だった。
少しでも動けば、アーヴィンの硬い腹筋や胸板に擦れてしまう。
(わ、わざわざこんな人目のつかない路地裏に引き込んで、ひとつのコートに入るなんて……! まさかアーヴィンさん、ここで私を……っ!? だからこんなに強引に……!)
またしても、アイラの優秀な脳が致命的な勘違いを引き起こしていた。
彼女の顔面は沸騰したように熱くなり、心臓は早鐘のように鳴り響く。
「あ、あのっ……アーヴィンさんっ、私、こんな心の準備がっ……」
「……喋るな。体温が逃げる」
アーヴィンは至極真面目に『保温』を心配して言ったのだが、その重低音ボイスはアイラの耳に『男の絶対的な命令』として響いた。
限界だった。
プシューッ、と頭から文字通り湯気を上げたアイラは、過呼吸と極度の緊張により、そのまま白目を剥いて気絶してしまった。
急に腕の中で大人しくなり、ズルリと体重を預けてきたアイラを感じ、アーヴィンは内心で力強くガッツポーズを決める。
(フッ……暗闇と俺の体温で、安心しきって眠ってしまったようだな。やはり師匠の教えは完璧だった)
彼は気絶したアイラを抱き寄せ、いつものように低く渋い声で呟いた。
「……お前、面白い女だな」
その直後、雨上がりで人通りの戻った大通りでは、真っ黒なコートの塊を大切そうに抱えてドヤ顔で歩くS級冒険者の姿が目撃された。
翌日の王都で『アーヴィン様、ついにギルドの受付嬢を強引にお持ち帰り』というゴシップが爆発的に広まることになるのだが、本人は一切気づいていなかった。
最強の男の恋愛レベルは、今日も世界に大いなる誤解を撒き散らしていた。




