その男、お姫様抱っこをする
『第四章:女は疲れると空を飛びたくなる生き物だ。疲労困憊の女を見つけたら、有無を言わさず「お姫様抱っこ」で運び去れ。強引な浮遊感が恋の吊り橋を激しく揺らすのだ』
――幻の奇書『これ一冊でモテる!恋愛完全攻略』第68ページより抜粋
王都の大通り。
石畳に規則正しいブーツの足音が響いていた。
その音の主は、王都近衛騎士団を束ねる女騎士団長、セリア・ヴァンガードだった。
『氷刃』の異名を持つ彼女は、プラチナブロンドの髪と氷のように冷たく美しい美貌、そして規律を重んじる厳格な性格で知られている。
しかし、今日の彼女の足取りは僅かに乱れていた。
三日三晩に及ぶスタンピード(魔物の大暴走)の事後処理に追われ、極限まで疲労が蓄積していたのだ。
「……くっ、少し眩暈が……」
カチャリ、と鎧の音を立てて、セリアが壁に手をつこうとよろめいた、その時だった。
「…………」
偶然通りかかった漆黒のコートの男――アーヴィン・クロムウェルが、その場に立ち止まった。
周囲の通行人たちが「あ、S級のアーヴィン様だ」
「氷刃の騎士団長と睨み合っているぞ……!」と息を呑む中、アーヴィンは眉間にシワを寄せ、鋭い眼光でセリアを見下ろしていた。
――無論、彼の脳内はまたしても制御不能の大パニックに陥っていた。
(な、なんだこの美しい生き物は!? しかも銀色の鎧を着ている! 太陽の光が反射して直視できない! どうする!? すれ違うだけか!? いや、彼女は今よろめいていた! ここで素通りすれば『血も涙もない冷血漢』として騎士団から指名手配されるのではないか!?)
冷徹なポーカーフェイスの裏側で、アーヴィンは必死に解決策を模索した。
そして、彼の脳細胞はいつものように、一冊の愛読書へとアクセスした。
(思い出せ……! 『疲れた女』に対する最適解! 第68ページのメソッドだ!)
アーヴィンは目を見開いた。
『お姫様抱っこ』。
それは、女性を両腕でふわりと抱き上げ、安心感と特別感を同時に与える究極のロマンチック・アクション。
(これだ! 師匠の教えに従い、彼女を騎士団本部まで送り届ける!)
決断したアーヴィンの行動は、早かった。
早すぎた。
「……失礼する」
大通りに、突如として爆発的な風圧が吹き荒れた。
アーヴィンがS級冒険者のフルパワーとなる脚力で石畳を蹴り飛ばし、音速に近いスピードでセリアの膝裏と背中に腕を差し込んだのだ。
「えっ……きゃぁぁぁぁぁぁっ!?」
セリアの悲鳴は、凄まじい風切り音にかき消された。
アーヴィンはセリアを横抱きにしたまま、建物の屋根から屋根へと跳躍し、騎士団本部へ向かって一直線にカッ飛んでいく。
その速度、あまりにも異常。
ロマンチックな『お姫様抱っこ』というよりは、完全に『巨大怪鳥による非情な連れ去り』であった。
(よし! 完璧なフォームだ! 浮遊感を楽しんでくれているだろうか!?)
アーヴィンは真剣な表情で前方を見据えながら、己の完璧なエスコートに酔いしれていた。
しかし、腕の中にいるセリアの体感は全く違った。
(な、なんだこの凄まじいG(重力)は!? 息が、息ができない……っ! まるで嵐の中に放り込まれたような……いや、待って!)
強烈な風圧でプラチナブロンドの髪をボサボサにされながらも、セリアの優秀な騎士としての直感が、この異常事態に対してひとつの『答え』を導き出した。
(彼は今、私の命を狙った遠距離からの『狙撃魔法』から、身を呈して庇ってくれたんだわ! だからこんなにも常軌を逸したスピードで、射線を切りながら移動しているのね……!)
完璧な勘違いだった。
彼を突き動かしているのは、暗殺者への警戒などではなく、恋愛指南書である。
ズァァァァァンッ!!
わずか数秒後。
騎士団本部のエントランスに、隕石が落下したような轟音と共にアーヴィンが着地した。
巻き上がる土煙の中、アーヴィンはゆっくりと腕を下ろし、膝が笑って立てないセリアを地面に降ろした。
「……到着だ」
アーヴィンは、息一つ乱していなかった。
一方のセリアは、髪は鳥の巣のように爆発し、目はグルグルと回り、鎧のあちこちが風圧で外れかかっているという満身創痍の状態だった。
「あ、アーヴィン、殿……貴方は、私のために……」
セリアはへたり込んだまま、熱っぽい瞳でアーヴィンを見上げた。
本来なら不審者として即座に斬り捨てられてもおかしくない奇行だったが、彼女の目には今、アーヴィンが『見えない危機から自分を救い出してくれた、不器用で優しき暗闇の守護者』として映っていた。
(よし、完璧に送り届けたぞ! あとは万能の呪文で締めるだけだ!)
アーヴィンはコートの裾を翻し、背中越しに低い声で言い放った。
「……お前、面白い女だな」
「っ……!」
セリアの胸が、かつてないほど激しく高鳴った。
『お前のような堅物でも、守り甲斐があって面白い』。彼女の脳内で、その言葉は極上の口説き文句として自動翻訳されていた。
「お待ちください! この御恩、いつか必ず……!」
頬を真っ赤に染め、乙女の顔を見せる氷刃の騎士。
それを背中で聞きながら、アーヴィンは(今日も愛読書のおかげで命拾いしたな)と内心で冷や汗を拭っていた。
最強の男が振り撒く勘違いの旋風は、ついに国家の騎士団にまで被害を拡大させてしまったのだった。




