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観測範囲の日常  作者: はまゆう


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3/5

第三話 同期の観測者

その日の放課後、湊と真冬は図書館に向かった。

どちらが言い出したのか、湊は覚えていない。

たぶん二人とも、同じことを考えていたのだと思う。

人の多い場所に行きたかった。

校舎裏を飛び出してからも、あの感覚は消えなかった。

背中の真ん中に、ずっと細い視線が刺さっている。廊下を歩いていても、階段を下りても、教室に戻っても、誰かが半歩後ろをついてくるような気配がある。振り向けば消える。けれど、前を向くとまた戻ってくる。

一人になりたくなかった。

でも、ただ人がいれば安心できるとも思えなかった。

図書館なら、少なくとも静かだ。

騒がしさに紛れて異変を見失うこともないし、監視カメラもある。もし何かが本当に起きたなら、記録が残るかもしれない。

——いや。

そこまで考えたところで、湊は自分の思考にぞっとした。

もし映っても、誰も気づかなかったら?

朝の影も、昼の遅れた影も、結局は自分と真冬しか見ていない。

カメラに映るのに人の目には見えないものがあるなら、その逆だってありえる。記録されても、意味を持たない。証拠が証拠にならない。

そんなことを考えながら、自動ドアをくぐった。

図書館の空気は、外と違った。

ひんやりしている。

でも、学校の廊下みたいな乾いた冷たさじゃない。紙とインクと古い木の匂いが混ざった、少し湿った静けさだ。ページをめくる音が遠くで小さく鳴り、貸し出しカウンターでは司書の女性がバーコードを読み取っている。電子音が一度だけ鳴って、また静かになる。

その静けさに足を踏み入れた瞬間、湊は気づいた。

掌の熱が、少し下がっている。

「……あれ」

思わず右手を見る。

赤くなっているわけじゃない。

見た目はいつも通りの掌だ。線があって、少し乾燥していて、シャーペンの跡が中指に薄く残っているだけ。けれど、朝からずっと居座っていたあの熱の芯が、図書館に入った途端、薄くなっていた。

完全に消えたわけじゃない。

火が消えたというより、布をかぶせられて勢いを失った感じだ。

「湊」

真冬の声も、図書館の中では自然と小さくなる。

窓際の席に向かい合って座ると、彼女はすぐにスマホを差し出してきた。

その動きが少し急で、湊は反射的に周囲を見た。誰もこちらを見ていない。みんな本を読んでいるか、ノートに何かを書いている。司書もカウンターの向こうで淡々と作業を続けていた。

「スマホ見て」

真冬の声は低い。

ただの相談じゃない。見つけてしまったものを共有するときの声だ。

湊は画面をのぞきこんだ。

ホーム画面の端に、見慣れないアイコンがある。

黒い四角。

その中央に、白い円がいくつも重なっている。レンズにも見えるし、波紋にも見える。シンプルなのに、妙に目に残るデザインだった。

下に表示された名前を見て、湊の喉がひやりとした。

観測範囲

「……何これ」

「わかんない」

真冬が首を振る。

「こんなの、入れた覚えない」

湊はもう一度アイコンを見る。

見覚えはない。ダウンロードした記憶もない。そもそも、こういう名前のアプリを自分が入れる理由が思いつかない。ゲームでもSNSでもない。便利アプリにも見えない。なのに、最初からそこにあったみたいな顔でホーム画面に居座っている。

「朝はなかったと思う」

真冬が言う。

「ついさっき気づいた」

その言い方が嫌だった。

“気づいた”だけで、“現れた瞬間”は見ていない。つまり、いつからそこにあったのかがわからない。朝からあったのに見えていなかったのか、本当に途中で増えたのか、その区別すらつかない。

真冬がアイコンをタップする。

画面が真っ黒になる。

一瞬、自分たちの顔が映り込んだ。

その上に、白い文字が浮かび上がる。

『観測対象: 神谷湊、東雲真冬』

『同期率: 83.7%』

『次の推奨行動: 遷移への同意』

湊は息を止めた。

観測対象。

その四文字が、妙に生々しい。

名前を呼ばれるのとは違う。人として扱われていない感じがする。動物実験のラベルみたいに、何かに見られ、測られ、記録される側に置かれた言葉。

「……気持ち悪い」

口に出すと、声が思ったより乾いていた。

真冬も小さくうなずく。

「うん。自分の名前がここにあるの、無理」

同期率、という言葉も引っかかった。

83.7%。中途半端な数字。適当に表示された感じがしない。何かを本当に計測している数字に見える。

何と何が同期している?

自分と真冬か。

それとも、自分たちと“何か”か。

「遷移って何」

湊がつぶやく。

真冬は画面を見たまま答えない。

答えられないのだ。わかるはずがない。なのに、文字だけは妙に断定的で、こちらが知らないことを前提に話しかけてくる。

湊は自分のスマホを取り出した。

指先が少し震えている。

ロックを解除し、ホーム画面を開く。

あった。

同じアイコンがある。

心臓が一度だけ強く鳴る。

見つけた瞬間、掌の熱がほんの少し戻った。気のせいじゃない。皮膚の下で、火種が息を吹き返す。

タップする。

黒い画面。

白い文字。

『観測対象: 神谷湊、東雲真冬』

『同期率: 84.1%』

『次の推奨行動: 遷移への同意』

「……数字が違う」

真冬が身を乗り出す。

「え?」

「そっちは83.7だろ。俺の、84.1」

二人で画面を見比べる。

たった0.4の差。小さい。けれど、同じじゃないことが逆に怖い。雑な表示なら同じ数字を出すはずだ。違うということは、個別に測っている。

「どういうことだろう」

湊は画面を見たまま言った。

「同期って何なんだよ」

その問いに答えるように、図書館の奥で椅子が鳴った。

ぎ、と短い音。

二人は同時に顔を上げた。

入り口近くの本棚のそばで、女子生徒が立ち上がっていた。

同じクラスの田中彩だ。肩までの髪、少し猫背気味の姿勢、いつも静かな子。昼休みに教室で本を読んでいることが多い。今も文庫本を片手に持ったまま、もう片方の手で本棚をつかんでいる。

顔色が悪い。

いや、悪いなんてもんじゃない。

血の気が引いて、唇まで白い。指先が震えているのが、少し離れたここからでもわかった。

「田中さん?」

真冬が小さく呼ぶ。

反応がない。

田中は、こちらを見ていなかった。

もっと奥。図書館の壁の一点を、瞬きもせず見つめている。

湊もその先を見る。

壁。

ただの壁だ。

本棚と本棚のあいだにある、白っぽい壁面。掲示物もなく、時計もなく、ただ照明の光を受けて少し黄ばんで見えるだけの壁。

何もない。

——はずだった。

次の瞬間、そこに線が走った。

湊は自分の目を疑った。

ひび、だった。

でも、壁に入るひびじゃない。

コンクリートが割れたときの灰色の筋でも、塗装の剥がれでもない。もっと薄くて、もっと鋭い。空間そのものに、ガラスみたいな亀裂が入っている。

ぴし。

音はしなかった。

なのに、そう聞こえた気がした。

ひびは一本では終わらない。

中心から枝分かれするように、細い線が何本も広がっていく。蜘蛛の巣みたいに。割れた鏡みたいに。壁の表面ではなく、その手前の“見えている空気”に走っている。

「……っ」

湊の背中に冷たいものが走る。

ひびの向こうに、別の図書館が見えた。

同じ場所。

でも、違う。

机の配置が少しずれている。

窓から差し込む光の角度が違う。

本棚の並びも、ほんのわずかに違う。

見慣れた場所のはずなのに、夢の中で見た学校みたいに、細部だけが噛み合っていない。

現実が、薄くめくれている。

「やば……」

田中の声が、かすれて漏れた。

「やばいって……」

その声を聞いた瞬間、湊の掌が灼けた。

熱い。

朝や昼の比じゃない。

掌の中心に、赤く焼けた金属を押し当てられたみたいな熱。反射的に手を握る。爪が食い込む。痛みで相殺しようとしても、熱のほうが強い。

同時に、スマホが震えた。

机の上で、ぶるっと短く跳ねる。

見なくてもわかった。

あのアプリだ。

湊は恐る恐る画面を落とす。

勝手に起動している。

黒い画面。

白い文字が、さっきより速く切り替わる。

『警告: 遷移失敗の予兆を観測』

『観測層の修正を試行』

『対象の不安定性: 田中彩、感情値を超過』

感情値。

その単語を読んだ瞬間、湊は田中を見た。

彼女は本棚にしがみつくみたいに立っている。

肩が震えている。呼吸が浅い。目だけが見開かれ、ひび割れた空間から離れない。恐怖で身体が固まっているのがわかる。

あれが引き金なのか。

田中の恐怖が、このひびを広げている?

「感情値……」

真冬が、ほとんど息だけでつぶやく。

彼女も同じことを考えたのだとわかった。

図書館は静かなままだった。

それが、いちばん怖い。

すぐ近くで現実が割れているのに、他の生徒たちは何も気づかない。

参考書に線を引いている男子。雑誌をめくる女子。カウンターで本を受け取る一年生。司書の女性はバーコードを読み取り、いつも通りの手つきで本を重ねている。

誰も、見ていない。

見えていない。

田中だけが見て、

湊と真冬だけが見ている。

その事実が、ひびそのものより恐ろしかった。

世界が壊れているんじゃない。壊れているのを認識できる人間が、限られているのだ。

ひびが広がる。

向こう側の図書館が、もう少しだけ鮮明になる。

別の席に、別の誰かが座っている気がした。こちらにはいないはずの人影。光の角度が違うせいで、窓際の机の影も長い。

もし、あれが本当に“別の層”なら。

もし、向こうにもこちらが見えていたら。

そう考えた瞬間、湊の喉がひどく乾いた。

スマホの文字がまた切り替わる。

『修正を継続』

『同期観測者の介入を推奨』

『安定化まで残り 3』

残り3、の意味を考えるより先に、ひびがぴくりと震えた。

そして。

ふっと消えた。

あまりにも唐突だった。

割れていたはずの空間が、最初から何もなかったみたいに閉じる。

白い壁だけが残る。黄ばんだ、普通の図書館の壁。ひびの跡もない。向こう側の光もない。別の机もない。

静寂。

ページをめくる音だけが戻ってくる。

田中彩だけが、その場にしゃがみこんだ。

膝から力が抜けたみたいに、床へ崩れる。

持っていた文庫本が落ちる。ぱたん、と乾いた音がした。その音だけが、今起きたことの全部を嘘みたいにしてしまう。

「ちょっと……」

真冬が小さく言う。

「今の……見えたの、私たちだけ?」

湊はすぐに答えられなかった。

図書館を見回す。

誰も騒いでいない。

誰も壁を見ていない。

司書がようやく田中の異変に気づいて、「大丈夫ですか?」とカウンターから出てくる。でもその顔は、具合の悪い生徒を心配する顔でしかない。空間の亀裂を見た人の顔じゃない。

「……私たちだけ、なのかな」

そう言いながら、自分の声が遠く聞こえた。

スマホを見る。

同期率が上がっている。

『86.2%』

さっきより、増えている。

何かが進んでいる。

その実感が、数字になって目の前にある。

しかも、それは自分たちが異変を見るたび、理解するたび、恐怖するたびに進んでいるように思えた。

朝、声が重なった。

昼、影が遅れた。

放課後、空間が割れた。

そのたびに、自分たちは“向こう側”に近づいている。

「感情値って……」

真冬が言う。

「恐怖とか、混乱とか、そういうのを測ってるってことかな」

「だとしたら」

湊は言いかけて、口の中がひどく乾いていることに気づく。

「怖がるほど、進むってことか」

その言葉は、口にした瞬間に現実味を持った。

怖がるな、と思って怖がらないでいられるほど、今の状況は軽くない。

でも、怖がること自体が何かを進めるなら、自分たちはもう罠の中にいる。異変を見れば怖い。怖がれば進む。進めば、もっと異変が見える。

図書館の窓の外で、夕方の光が少しだけ傾いた。

そのとき。

机の上のスマホに、新しい一行が表示された。

『同期観測者を確認』

『追加対象: 田中彩』

『暫定同期率: 12.4%』

湊と真冬は、同時に顔を上げた。

床にしゃがみこんだままの田中彩が、ゆっくりこちらを見ていた。

泣き出しそうな顔だった。

でも、その目の奥には、ただ怯えているだけじゃない色があった。

——見えてしまった者の目だ。

自分たちと同じ。

世界のほころびを一度見てしまって、もう“何もなかったこと”には戻れない人間の目。

湊の掌が、またじわりと熱を持ち始める。

図書館の静けさはそのままだ。

司書の声も、ページをめくる音も、窓の外の夕焼けも、全部いつも通りだ。

なのに、その“いつも通り”の内側で、確実に何かが人数を増やしている。

観測者が、増えていく。

同期が、始まっている。

そして湊は、まだ知らなかった。

同期するのが人間同士だけではないことを。

観測する側と、観測される側の境界そのものが、もう少しで曖昧になることを。


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