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観測範囲の日常  作者: はまゆう


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第四話 再構築の論理

その夜、湊は自分の部屋にいた。

机の上には、開きっぱなしの教科書と、途中までしか解いていない数学の問題集。

ペンケース。飲みかけの麦茶。脱ぎ捨てたカーディガン。ベッドの上には朝から投げたままのスクールバッグが口を開けている。

見慣れた部屋だった。

六畳。

白い壁。

本棚。

カーテンの隙間から見える隣家のベランダ。

壁掛け時計。

何年も前から変わらない、自分の部屋。

なのに今夜は、その“変わらなさ”が逆に薄気味悪かった。

何もかもが、ちゃんとそこにある。

ちゃんとありすぎている。

机も、時計も、カーテンも、「神谷湊の部屋」という情報を過不足なく満たしている。まるで誰かが“高校二年生の男子の部屋”を手際よく再現したみたいに、隙がない。

そんなことを考えてしまう自分が、もう普通じゃないのだと湊はわかっていた。

スマホの画面が、暗い部屋で白く浮いている。

観測範囲

あのアプリは、消えていなかった。

放課後の図書館で見つけてから、何度再起動しても、フォルダに隠そうとしても、アンインストールしようとしても、そこにある。長押ししても削除の表示が出ない。最初からOSの一部だったみたいな顔で、ホーム画面に居座っている。

湊はベッドに腰かけたまま、もう何度目かわからないタップをした。

黒い画面。

白い文字。

無機質なくせに、こちらのことだけはよく知っている表示。

昼間より、項目が増えていた。

いや、増えたというより、最初からあったものが開くようになったのかもしれない。

まず、観測。

そこを開くと、地図のような画面が現れた。

自宅周辺の簡略化された地図。道路、建物、交差点、公園。見慣れた住宅街の形が、少しだけ抽象化されて表示されている。その上に、青い光の濃淡が重なっていた。

濃い場所。

薄い場所。

点ではなく、面で塗られている。

湊は画面を指で拡大する。

自分の家の周辺は、かなり濃い青だった。

道路沿いの街灯。向かいの家の玄関灯。角のコンビニの防犯カメラ。隣家の駐車場にあるセンサーライト。そういうものが頭に浮かぶ。

「……観測密度、ってことか」

口に出してみる。

誰も答えない。

もちろんだ。部屋には自分しかいない。

でも、その“自分しかいない”感じが、今夜は妙に強かった。

家の中には父も母もいるはずだ。

一階ではテレビがついていて、母が台所で何か片づけていて、父が風呂上がりに新聞でも読んでいる。いつもの夜なら、そういう生活音が薄く重なって聞こえてくる。

今は静かだった。

静かすぎる。

湊はその違和感をいったん脇に置いて、次の項目を開く。

遷移

そこには、たった一行だけ表示されていた。

『条件未達成: 同期率90%以上が必要』

90%。

その数字を見た瞬間、胸の奥がざわつく。

図書館で見たときは86.2だった。今はどうなっているのか、確認したいような、したくないような気分になる。

遷移、という言葉も嫌だった。

移る。

どこへ。

何から何へ。

場所なのか、状態なのか、それとも“層”なのか。

今まで見てきた異常を思い返すと、どれも現実が少しずつ別のものにずれていく感覚とつながっている。影の遅れ。時間の重複。図書館の亀裂。もし遷移がそれらの延長にあるなら、ロックされていること自体が不気味だった。

そして、三つ目。

再構築

湊はそこを開いて、しばらく画面を見つめた。

説明文は短い。

短いのに、読めば読むほど気分が悪くなる。

『本システムは、観測対象の現実認識を維持するために機能する。観測層からの入力(感情値を含む)に基づき、対象の知覚範囲内の事象を動的に再構築する。』

「……は?」

思わず声が漏れた。

現実認識を維持する。

知覚範囲内の事象を動的に再構築する。

言葉の意味はわかる。

でも、意味がわかるからこそ嫌だった。

再構築。

つまり、壊れたものを直すとか、足りないものを補うとか、そういうことだ。

けれどここで言っているのは、机や建物の話じゃない。事象だ。起きたことそのもの。見えたもの、聞こえたもの、感じたもの。そういう“現実の中身”を、必要に応じて組み直していると言っている。

湊は喉の奥が乾くのを感じた。

スクロールする。

さらに下に、別の説明があった。

『現実は多層構造である。観測層が上位に、知覚層が下位に存在する。下位層の矛盾や破綻は上位層によって修正される。修正頻度は感情値の変動に依存する。感情が高まれば高まるほど、再構築の負荷は増大する。』

湊はスマホを持つ手に力を入れた。

観測層。

知覚層。

上位。

下位。

頭の中で、図書館のひび割れがよみがえる。

あれは壁が割れたんじゃない。層がずれたのだ。こちらの図書館と、少しだけ違う別の図書館が、一瞬だけ重なった。もしこの説明が本当なら、あれは“修正の失敗”か、“再構築の途中”だったことになる。

「つまり……」

湊はスマホに向かってつぶやいた。

「俺たちの感情が、『現実』を書き換えてるってことか?」

言った瞬間、自分の声が部屋の中でやけに小さく響いた。

アプリは答えない。

当然だ。

ただの画面だ。

ただの文字列だ。

なのに、その沈黙が、かえって肯定みたいに思えた。

そのとき。

壁掛け時計の秒針が止まった。

湊は顔を上げる。

23時47分。

秒針はその位置で止まり、カチ、カチ、と音だけを立てている。

進まない。

でも、壊れた時計みたいに完全に沈黙しているわけじゃない。動こうとして、動けない。そんな感じだ。

湊は立ち上がりかけて、やめた。

見ていたほうがいい。

そう思った。

五秒。

いや、もっと長かったかもしれない。

時間の感覚が曖昧になる。

次の瞬間、秒針がふっと戻った。

ほんの少しだけ。

そして、また23時47分から動き出す。

「……っ」

湊の背中に冷たい汗が流れた。

真冬が言っていた現象だ。

時間の重複。

同じ一分が、もう一度再生される。

時計の故障じゃない。今、自分はそれを見た。止まって、戻って、やり直した。時間が一本の線じゃなく、引っかかって巻き戻るテープみたいに振る舞った。

「何が起こってるんだ……」

つぶやいた声は、今度ははっきり震えていた。

その瞬間、ドアがノックされた。

こん、こん。

湊の肩が跳ねる。

「湊、ちょっといいか」

父の声だった。

聞き慣れた声。

低くて、少し鼻にかかった声。仕事から帰ってきた夜の、少し疲れた声。

「……うん」

返事をすると、ドアが開く。

父が入ってくる。

Tシャツにスウェット姿。風呂上がりらしく、髪が少し湿っている。いつもの父だ。見た目は何もおかしくない。

「どうした、顔色悪いぞ」

父はそう言って、部屋の入口で立ち止まった。

「風邪か?」

「いや、ちょっと寝不足で……」

「そうか。なら早く寝ろよ。明日も学校だ」

それだけ言って、父はドアを閉めた。

普通の会話だった。

短くて、何の変哲もない親子のやりとり。

心配されて、適当にごまかして、早く寝ろと言われる。どこの家でもありそうな夜の一場面。

なのに。

湊は、ドアが閉まったあともしばらく動けなかった。

何かが引っかかっている。

父の声。

ほんの少しだけ——

別の誰かの声と重なっていなかったか?

朝、堀之内の朗読で聞いた、あの遅れた声。

あれに似ていた。父の声のすぐ後ろに、もう一つ薄い声が貼りついていた気がする。言葉は同じだったのかもしれない。あるいは、少し違ったのかもしれない。そこまではわからない。ただ、“一人分の声じゃなかった”という感覚だけが残っている。

湊は耳を澄ませた。

静かだ。

静かすぎる。

一階からテレビの音がしない。

母が食器を洗う音もしない。

風呂場の換気扇も、廊下を歩く足音も、何も聞こえない。

家族がいる家の静けさじゃない。

誰もいない家の静けさだ。

その事実に気づいた瞬間、部屋の空気が少しだけ薄くなった気がした。

息がしづらいわけじゃない。けれど、空間の中身が減ったみたいな、妙な空白がある。

湊はスマホを見た。

同期率が表示されている。

『89.4%』

喉が鳴った。

あと少し。

90%に届けば、遷移が開く。

そこに何が書かれているのか。

何が起きるのか。

知りたい気持ちはある。けれど、それ以上に、知った瞬間に戻れなくなる予感があった。

図書館で田中彩が見た亀裂。

自分たちだけが見える異常。

他の生徒たちは何も知らないまま、普通の放課後を過ごしていた。

つまり、“観測できる人間”と“できない人間”がいる。

能力、という言葉が頭をよぎる。

でも、それは少し違う気がした。もっと嫌なものだ。才能じゃない。選別に近い。

なぜ、自分たちなのか。

その問いに、アプリは答えを持っていた。

湊は画面をスクロールする。

下のほうに、小さな文字で項目がある。

『観測対象の選定基準: 感情値の振幅が大きく、かつ現実認識の可塑性が高い個体』

湊はその一文を、二度読んだ。

感情値の振幅。

それは、わかる気がした。

自分は昔から、些細なことで動揺する。

テストの点で落ち込むし、友達の一言を引きずるし、嬉しいことがあるとすぐ顔に出る。感情の起伏が大きい自覚はある。真冬もたぶん、そういうところがある。表には出しにくいけれど、内側では強く揺れるタイプだ。

問題は、その次だった。

現実認識の可塑性。

可塑性。

柔らかく、形を変えやすいこと。

つまり、現実を“そういうものだ”と受け入れやすい人間。

矛盾があっても、違和感があっても、最終的に「最初からそうだった」と飲み込める人間。書き換えられた現実に、うまく馴染める人間。

理想的な観測対象。

その言葉が、頭の中で勝手に補われた。

もし現実が本当に再構築されているなら、システムにとって都合がいいのは、書き換えに抵抗しない人間だ。違和感を抱いても、すぐに慣れる人間。疑わず、順応し、修正後の世界をそのまま生きていける人間。

じゃあ。

疑問に思ってしまった者は?

湊はそこで、指を止めた。

考えたくないのに、考えてしまう。

疑問を抱くことは、矛盾に気づくことだ。

矛盾に気づくことは、再構築の継ぎ目を見ることだ。

それは、このシステムにとって邪魔なはずだ。現実を滑らかに維持したいなら、継ぎ目を見つける人間はノイズになる。

ノイズは、どう処理される?

画面の一番下に、小さな文字があった。

見落としそうなくらい小さい。

でも、見つけてしまったら、もう見なかったことにはできない。

『疑問値の超過は対象のリセットを推奨』

リセット。

湊はその単語を見たまま、しばらく動けなかった。

リセットって何だ。

記憶か。

人格か。

存在そのものか。

考えればいくらでも嫌な意味に広がる。

だからこそ、考えたくなかった。

けれど、考えないこともまた、別の恐怖だった。

知らないまま進むのは怖い。知ってしまうのも怖い。どちらにしても、もう普通の夜には戻れない。

部屋の時計が、またカチ、と鳴る。

今度は普通に進んでいる。

23時48分。49分。秒針は何事もなかったように動いている。

その“何事もなかったように”が、いちばん信用できなかった。

湊はスマホを伏せた。

画面を見ていると、文字がこちらを見返してくる気がする。

ベッドに座ったまま、両手で顔をこする。掌はまた少し熱を持っていた。熱いのに、指先は冷たい。身体の中で季節がばらばらだ。

考えるのをやめよう、と思った。

少なくとも今は。

考えないことが、生き延びることかもしれない。

そんな気がした。

でも、その考えが頭に浮かんだ瞬間、湊は気づいてしまった。

“考えるのをやめよう”と決めること自体が、もうシステムに従い始めているのではないか。

その疑問に、心臓がどくんと鳴る。

スマホの伏せた画面が、机の上でかすかに光った。

見なくてもわかった。

何かが、更新された。

湊はすぐには手を伸ばせなかった。

暗い部屋。静まり返った家。進み続ける同期率。父の声に混じった、もう一人分の気配。

その全部が、今この部屋を“自分の部屋”ではないものに変え始めている。

そして湊は、まだ知らない。

再構築されるのが景色や時間だけではなく、

家族との記憶や、会話の履歴や、自分が「自分」だと思っている輪郭そのものにまで及ぶ可能性を。

もしそうなったとき、

疑問を抱いた自分は、どこまで自分でいられるのか。

机の上で、スマホがもう一度、小さく震えた。


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