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観測範囲の日常  作者: はまゆう


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第二話 影の遅延

昼休みだった。

四時間目が終わったあとの校舎は、いつも少しだけ浮ついている。

教室のあちこちで椅子が鳴り、弁当箱のふたが開く音がして、誰かが廊下へ飛び出していく。購買へ向かう足音、部活の話、テストの愚痴、笑い声。学校という場所が、授業という型からいったんほどけて、素のざわめきに戻る時間だ。

そのざわめきの中にいても、神谷湊はずっと落ち着かなかった。

朝のあれから、教室の空気は元に戻ったように見えた。

窓の外の欅の影も、いつの間にか普通の影に戻っていたし、堀之内も「神谷、顔色悪いなら保健室行け」と一度言ったきり、授業を続けた。クラスメートたちも最初こそざわついたが、結局は「神谷が立ちくらみでも起こしたんだろ」くらいの認識で片づけたらしい。

でも、湊の身体だけは、あの瞬間から戻っていなかった。

掌の熱は消えない。

右だけじゃない。今は左も、じっとしているとじわじわ熱を持つ。机に手を置いていると、そこだけ木の表面がぬるくなっていく気さえした。気のせいかもしれない。けれど、そう思うには熱があまりにもはっきりしていた。

それに、視線。

誰かに見られている。

そう思うたびに振り向く。

教室の後ろ。廊下側の窓。ロッカーの上。誰もいない。みんな普通に昼休みを始めている。なのに、首の後ろの皮膚だけが、ずっと薄く粟立っていた。

「行こ」

真冬が短く言った。

それだけで十分だった。

二人は教室を出て、購買でパンを買い、人の少ない校舎裏へ向かった。

校舎裏のベンチは、昼でも少し薄暗い。

南側の校舎に日差しを遮られて、地面はまだ朝の冷たさを残している。コンクリートの壁にはうっすらと湿気があり、排水溝の近くから鉄っぽい匂いがした。グラウンドの歓声もここまで来ると遠い。別の学校みたいに聞こえる。

普段なら、誰も来ない場所だ。

湊はベンチに腰を下ろした。

冷たい。制服越しでもわかるくらい冷たい。なのに、自分の背中はまだ汗ばんでいる。そのちぐはぐさが気持ち悪い。

購買の袋から焼きそばパンを取り出す。

ビニールを破る指先が、少し湿って滑った。

真冬はジャムパンを持ったまま、すぐには食べなかった。

何かを言う前の顔をしている。朝からずっとそうだった。教室でも、授業中でも、窓の外を見るたびに何かを測るみたいな目をしていた。

「私も昨日から変だったんだ」

やっと口を開いた声は、思ったより低かった。

湊はパンを持ったまま、彼女を見る。

「昨日?」

「うん。夜、自分の部屋で勉強してたとき」

真冬はジャムパンをちぎる。

赤いジャムが、白いパンの断面ににじんでいる。その色だけが妙に鮮やかで、湊はなぜか目を離せなかった。

「スマホの時計が、一瞬戻ったの」

「戻った?」

「23時14分が、また23時14分を表示した」

湊は眉を寄せた。

意味はわかる。けれど、頭の中で映像にしようとすると、どこかで引っかかる。時計は進むものだ。止まることはあっても、“同じ一分をもう一回やる”なんて動き方はしない。

真冬は続けた。

「最初は見間違いだと思った。疲れてたし。でも、二分くらい同じ時間が続いたの。秒だけ進んでるとかじゃなくて、感覚として、時間そのものが足踏みしてるみたいに」

その言い方に、湊の喉が少し乾いた。

時間が足踏みする。

そんなこと、あるわけがない。

ないはずなのに、朝の教室で聞いた“声の重なり”を思い出すと、笑い飛ばせなかった。あれも似ている。音が一度鳴って、ほんの少し遅れて、もう一度同じ形で追いついてきた。まるで世界のどこかで、処理が引っかかったみたいに。

「今朝も起きた」

真冬が言う。

「駅の改札の時計。デジタルのやつ。8時27分から28分に変わる瞬間、27を二回表示した」

「……他の人は?」

「わからない。たぶん誰も気づいてない。少なくとも、周りは普通だった」

普通。

その言葉が、今はひどく頼りない。

普通って何だ。多数決か。みんなが見ていないなら存在しないことになるのか。じゃあ、朝のあの影は? 自分と真冬が見たものは、どこに置けばいい?

湊は焼きそばパンをひと口かじった。

味がしない。ソースの濃さも、パンの油っぽさも、口の中に入っているはずなのに遠い。身体の感覚が、全部掌の熱と首筋のざわつきに持っていかれている。

「もしかしたら、関連あるかも」

そう言うと、自分の声が少し掠れていた。

真冬はすぐにうなずいた。

「私もそう思う。でさ、もっと変なことがあるんだ」

彼女はバッグを膝に引き寄せ、タブレット端末を取り出した。

黒い画面に一瞬だけ空が映り込み、すぐに指先で解除される。写真フォルダが開く。真冬は写真が趣味だ。空とか街角とか、光の入り方がきれいなものをよく撮っているのを湊は知っていた。

「これ、昨日の夕方に家の前で撮った空」

画面に映し出されたのは、夕焼けだった。

茜色。

雲の縁だけが金色に光っていて、電線が細い黒い線になって横切っている。どこにでもありそうで、でも少し見とれるような、秋の終わりの空。

「きれいじゃん」

「うん。でも、変なのはそこじゃない」

真冬の指が画面の一点を押さえる。

そのまま二本指で広げる。空の一部が拡大される。

最初、何が変なのかわからなかった。

ノイズかと思った。

レンズの汚れか、圧縮の乱れか、そういう写真につきものの小さな崩れ。

でも、見ているうちに、それが“形”を持っているのがわかった。

直線。

空の中に、直線がある。

雲の輪郭みたいな曖昧なものじゃない。

もっと人工的な、角度を持った線。柱のようなもの。梁のようなもの。建物の骨組みだけを、薄い影でなぞったみたいな輪郭。

そこに建っているはずのない建築物。

「……何これ」

声が勝手に漏れた。

真冬は画面から目を離さずに言う。

「加工じゃないよ」

「いや、そういう意味じゃなくて」

「撮ったとき、変な影が入ったなと思って確認したの。でも、現物を見たら何もなかった。空には雲しかなかった」

湊はタブレットに顔を近づけた。

ガラスに自分の顔がうっすら映る。その向こうに、存在しないはずの構造物が浮いている。

「つまり、カメラにだけ映ったってこと?」

「たぶん」

その一言が、妙に重かった。

目には見えない。

でも、レンズには映る。

人間の感覚の外側にある何かが、機械のほうには引っかかっている。そう考えた瞬間、世界の輪郭が少しだけ信用できなくなる。見えているものだけが現実じゃない。むしろ、見えていないもののほうが、すぐそばにあるのかもしれない。

そのときだった。

左手の掌が、急に熱くなった。

さっきまでの熱とは違う。

じわじわじゃない。いきなり火を近づけられたみたいに、中心が焼ける。

「いっ……!」

湊は反射的に手を握りしめた。

パンの袋がくしゃりと鳴る。呼吸が一瞬止まる。

真冬が顔を上げた。

「どうしたの!?」

「手……っ」

左手を膝の上に押しつける。

冷たい制服の布に触れても、熱は引かない。むしろ、押しつけた場所から熱が染み出していくみたいだ。

「さっきより熱い。なんか……今、話してる瞬間に上がった」

「今?」

真冬の目が細くなる。

考えるときの顔だ。彼女はすぐに“怖がる”より先に“つなげる”。朝からそうだった。

「話の内容に反応してる……?」

「わかんない。でも、写真見た瞬間に」

そこまで言って、湊は自分でぞっとした。

見た瞬間。

聞いた瞬間。

気づいた瞬間。

もしそうなら、自分の身体は“異常そのもの”に反応していることになる。熱が出ているんじゃない。何かを観測するたびに、身体のどこかが反応している。

真冬は何か言いかけて、ふいに黙った。

視線が、湊の肩越しを通って、校舎の壁の一点に止まる。

「湊、見て」

その声は小さいのに、妙にはっきり耳に入った。

湊は振り向く。

校舎の壁。

薄い日陰。

そこに、二人の影が落ちている。

影は淡い。

日当たりが悪いせいで輪郭がぼやけ、コンクリートのざらつきに溶けかけている。普通なら、気にも留めない程度の薄さだ。

だからこそ、違和感が見えた。

影の動きが、遅れている。

湊は息を止めた。

自分は今、振り向いた。

そのはずだ。首を回し、肩を動かし、視線を壁へ向けた。その動作はもう終わっている。

なのに、壁の上の影だけが、今からそれをなぞるみたいに、ゆっくり首を回した。

半拍遅れて。

「……は?」

喉の奥で声がひっかかる。

真冬の影も同じだった。

彼女はもう静止しているのに、影だけがわずかに揺れ、遅れて姿勢を整える。まるで古い映写機のフィルムが、現実より少し遅れて再生されているみたいに。

風はない。

二人とも動いていない。

なのに、影だけが別の時間を生きている。

「やばい」

湊は立ち上がった。

その瞬間、全身の毛穴が一斉に開いた。

汗が噴き出す。額、背中、脇、膝の裏。秋の空気の中で、身体だけが真夏の豪雨みたいに汗を吐き出す。シャツが一気に肌へ貼りつき、心臓がどくどく鳴る。

冷たい空気と熱い皮膚がぶつかって、吐き気に似た感覚がこみ上げた。

「これ、体調不良とかじゃない」

真冬の声が低く落ちる。

湊はうなずいた。

もう、そんな言い訳はできない。風邪でも寝不足でもない。自分たちは今、同じものを見ている。そしてそれは、見間違いでは済まない種類の異常だ。

「なんか……」

言葉が喉に引っかかる。

でも、言わずにいられなかった。

「誰かに見られてる感じがする」

真冬が、はっとしたようにこちらを見る。

その表情だけでわかった。

彼女も同じだ。

「私も」

声がかすかに震える。

「今日の朝からずっと。誰かに見られてる」

その一言で、校舎裏の空気が変わった気がした。

さっきまでただ薄暗いだけだった場所が、急に“潜んでいる場所”になる。

排水溝の影。ベンチの下の暗がり。校舎の壁際。室外機の裏。誰もいないはずなのに、どこにでも視線が潜める気がする。

湊は周囲を見回した。

誰もいない。

ベンチ。

雑草。

コンクリートのひび。

少し離れた場所に積まれた古いプランター。

窓のない壁。

非常階段の鉄骨。

どこにも、人はいない。

なのに、いる。

そうとしか思えない圧がある。

目ではなく、皮膚で感じる視線。背中の真ん中に細い針を当てられているみたいな感覚。振り向いたら消えるくせに、前を向くとまた刺さる。

かさっ、と音がした。

ベンチの上に置いたパンの包み紙が、ふわりと浮く。

風だ、と最初は思った。

でも次の瞬間、湊は目を見開いた。

包み紙は、風上に向かって飛んでいた。

ありえない。

軽いビニールが、空気の流れに逆らって、するりと持ち上がる。

見えない糸で引かれたみたいに、校舎の壁のほうへ滑っていく。途中で一度止まり、また少しだけ上へ動く。

真冬が息を呑む音がした。

湊の掌が、今度は左右同時に熱を持つ。

どくん。

どくん。

脈打つたびに、熱が増す。

影を見たからか。

見られていると気づいたからか。

それとも、今ここに“何か”が近づいているからか。

壁の影が、また遅れた。

今度は二人の影じゃない。

二人の影のあいだに、もうひとつ、薄い揺らぎが混じった。

人の形、とまでは言えない。

でも、影の濃さがそこだけ違う。輪郭になりかけて、なりきらない。コンクリートのざらつきの上に、別の暗さが重なっている。

三人目。

そんなはずはない。

ここには二人しかいない。

「……真冬」

湊は自分でも驚くほど小さな声で呼んだ。

「見えてる」

真冬も同じくらい小さな声で返した。

その返事が、逆に現実味を増した。

自分だけじゃない。たしかにそこにある。二人とも見ている。

包み紙が、ぴたりと空中で止まった。

時間が止まったみたいに。

いや、違う。

止まっているんじゃない。

“待っている”。

何かの合図を。

湊の喉が鳴る。

飲み込んだ唾が、やけに熱い。

そのとき、校舎の壁に映る三つ目の揺らぎが、ほんの少しだけ前へ出た。

二人の影より、半拍遅れて。

まるで、こちらの動きを真似しながら、追いつこうとしてくるみたいに。

湊の背筋を、冷たいものが一気に走った。

理解したくないのに、理解してしまう。

これはただの影じゃない。

光のいたずらでも、目の錯覚でもない。

“遅れている”んじゃない。

向こうは、こちらの時間に合わせようとしている。

その考えが頭に浮かんだ瞬間、左手の掌が焼けつくように熱くなった。

熱い、というより痛い。皮膚の下で赤い針が何本も開くみたいな痛み。

「っ……!」

湊は思わず壁から一歩下がる。

すると、壁の上の三つ目の揺らぎも、半拍遅れて一歩下がった。

真似している。

いや、追従している。

真冬がベンチから立ち上がる。

その影が遅れて立つ。

湊が息を呑む。

影は遅れて、胸のあたりをふくらませる。

世界が、薄い膜を一枚はさんで二重になっている。

自分たちは先にいる。

影は後ろからついてくる。

でも、その距離は少しずつ縮まっている。

「逃げよう」

真冬が言った。

その一言で、湊の足に力が戻る。

そうだ。見ている場合じゃない。確かめている場合でもない。これは観察対象じゃない。近づいてきている何かだ。

湊がベンチから離れようとした、その瞬間。

壁の三つ目の影が、初めて“自分から”動いた。

二人は止まっていた。

なのに、それだけが遅れてではなく、独立して、すっと横へ滑った。

ありえない。

影は、元の持ち主なしには動かない。

その常識が、目の前で音もなく折れた。

「走れ!」

自分が叫んだのか、真冬が叫んだのか、もうわからなかった。

二人は同時に駆け出した。

コンクリートを蹴る。冷たい空気が肺に刺さる。汗で張りついたシャツが気持ち悪い。視界の端で、壁の影がぬるりと伸びるのが見えた気がした。

校舎裏から廊下へ回り込むまでの数秒が、異様に長かった。

走りながら、湊は一度だけ振り返った。

誰もいない。

校舎裏には、ベンチと、落ちたパンの袋と、薄暗い壁があるだけだった。

けれど。

壁に落ちた影だけが、まだ一拍遅れて揺れていた。

そこに、二人のものではない揺らぎを残したまま。


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