第3話 「いい感じにしておいて」
「ありさ、これお願いしていい?」
午後三時。
先輩の悠斗が、ありさのデスクに資料を置いた。
「はい」
「来週の社内発表で使う資料なんだけど、ちょっと見やすくしておいて」
「分かりました」
「あと、いい感じに」
「……」
ありさの手が止まった。
「先輩」
「ん?」
「『いい感じ』って、どういう状態ですか?」
「え?」
「見やすい、というのは具体的に何を指しますか?」
「いや……その……」
悠斗は少し困った顔をした。
「パッと見て、いい感じ」
「パッと見て?」
「そう」
「基準は?」
「基準?」
「はい。文字サイズ、色、余白、情報量、視線誘導……どれを優先しますか?」
「そこまで考えなくていいから!」
「でも、最適な結果を出すには条件が必要です」
「最適って言った?」
「はい」
「……新人だよね?」
「はい」
「なんでそんな言葉が出てくるの?」
ありさは首を傾げた。
「普通に考えたらそうなりません?」
「ならないよ」
隣で聞いていた美咲が笑いをこらえている。
「ありさ、先輩困ってるよ」
「でも、指示が曖昧だと困らない?」
「私は困るけど……」
「ほら」
「いや、ありさとは困り方が違う」
「?」
結局、悠斗は資料を指差した。
「じゃあ……これより見やすくして」
「分かりました」
ありさはパソコンに向かった。
数分後。
「できました」
「早っ」
悠斗が画面を見る。
さっきまで文字と表が詰め込まれていた資料が、すっきり整理されている。
見出し。
グラフ。
重要な数字。
説明文。
すべて自然に目に入ってくる。
「……」
「どうですか?」
「いや、すごいけど」
「はい」
「これ、どうやって決めたの?」
「見やすくしました」
「それは見れば分かる」
「?」
「だから、なんでこの配置にしたの?」
ありさは画面を見ながら答えた。
「人は左上から見て、数字より先に大きい図形に視線が移る傾向があるので」
「……」
「あと、この資料を読む人は三分以内に内容を把握する必要があるので、最初に結論が分かるようにしました」
「……」
「何か問題ありました?」
悠斗は美咲を見る。
美咲も悠斗を見る。
二人とも何も言わない。
「ありさ」
「はい?」
「これ、何分で作った?」
「六分くらいです」
「……」
「先輩?」
「いや、なんでもない」
そのとき、課長が通りかかった。
「お、資料できた?」
「はい」
課長が画面を見る。
「いいね。これならそのまま使える」
「ありがとうございます」
課長が去っていく。
ありさは嬉しそうに笑った。
「よかった」
美咲が小声で言う。
「ありさってさ」
「なに?」
「もしかして、仕事だけならめちゃくちゃ優秀?」
「だけ?」
「いや……」
美咲はありさの机を見る。
そこには、
開けっぱなしのペットボトル。
昼食で使った箸。
なぜか片方だけの靴下。
そして――
「ありさ」
「はい?」
「それ、何?」
美咲が指差した。
「靴下」
「それは分かる」
「朝、片方なくて」
「うん」
「会社に着いてから、カバンの中に入ってるの見つけた」
「なんで?」
「分からない」
「……」
ありさは少し考えた。
「たぶん、家を出るときに持ってきた」
「持ってきたって、片方だけ?」
「うん」
「なんで?」
「分からない」
「そこは分からないんだ」
「うん」
ありさは笑った。
「人間って難しいね」
美咲は一瞬、黙った。
「……え?」
「なに?」
「いや」
美咲は首を振った。
「なんでもない」
ありさは何も気にせず、再びパソコンに向かった。
画面には、さっき完成させた資料。
その隅には、誰も気づかないほど小さなエラー表示が一瞬だけ現れた。
ありさはそれを見た。
「……あれ?」
次の瞬間には消えていた。
「まあ、いいか」
ありさはキーボードを打ち始める。
その横で、美咲がぽつりと言った。
「……ほんと、変な子」
ありさは振り返って笑った。
「よく言われる」
そして本人だけは、まだ知らない。
自分が「普通」だと思っていることのほうが、少しずつ普通ではなくなっていることを。




