episode.09「引き返せない決意」
「はんなっ!」
はんなの姿が暗がりから見えないことに気づいたれむが、反射的にピタリと足を止め、迷うことなく逆方向に引き返した。冷たいコンクリートの床を踏みしめる靴音が、不安を煽るように重く響く。
「どこに行ったの……っ、しっかりして!」
必死にはんなの名前を呼びながらあたりを探していると、前方の崩れかけた壁の隅から、うっすらと見覚えのあるピンク色の光がかすかに漏れているのが目に入った。その仄かな光の奥には、恐怖で身を縮こまらせながら懸命に走っているはんなの姿があった。
その背後からは、あの忌まわしい地を幾重にも這うような気味の悪い足音が、もうすぐそこまで冷酷に迫り来ていた。耳を劈くような湿った摩擦音と、周囲の空気がねじ曲がるような嫌な気配が、肌をピリピリと突き刺す。このままではほんの数秒で背後から追いつかれてしまう。他のメンバーたちは極限の恐怖のあまり振り返る余裕すらなかったのか、先へ先へと必死に走り去り、すでに暗闇の向こうへそれぞれの影が吸い込まれるように消えかけていた。
その逃げ惑う背中をあざ笑うかのように、背後の深い闇からおぞましい影が跳ねるように躍り出る。
それは、人間のものとは思えないほど関節が不自然に歪み、生気のないうつろな目をした異形の姿をした人形だった。暗がりの中でその輪郭が不気味に浮かび上がり、見る者の正気をすり減らすような異様なオーラを放っている。
◇
「なにあれっ……嘘でしょ……!? はんな!!!!!!」
「……後ろから、あの人形が……来るっ!」
恐怖のあまり、闇の中で誰かの声が激しく裏返る。
差し迫る絶望の中、先ほどの転倒で足を取られたはんなが、激しい痛みに涙を滲ませながら、ブルブルと震える小さな体を両手で固く抱きしめるようにしてうずくまっていた。
「れむ、私を置いて先に行って……! 私、足くじいちゃって……もう全然、動けないかも……っ!」
「……なにバカなこと言ってるの。置いていけるわけないでしょ。こんな時に無理して強がらないの。立てる?」
れむは、いつもの一歩引いたような冷静な口調とは裏腹に、迷うことなくその場に力強く膝をつき、はんなの冷え切った小さな手を取って、無理やり立たせようとした。しかし、極限の恐怖と激痛のせいで、はんなの足はガクガクと情けなく震え、自分の体重を支えることすらできず、その場に崩れ落ちるように一歩も動けない。
その瞬間だった。
背後の暗闇から、不気味に歪んだ異形の腕が、まるで獲物を狙う大蛇のように鎌首をもたげ、スルスルと不気味な軌跡を描いてれむたちに襲いかかってきた。
――狙われている。この暗闇の中ではんなを見捨てれば、自分一人だけなら逃げられるかもしれない。けれど、そんな身勝手な選択肢は私の頭の切っ先にも一切浮かばなかった。ふたりとも、このままでは間違いなく捕まってしまう。
れむは思わず、迫り来る人形に向かって、いま握りしめていたスマートフォンを持った手をぐっと突き出すようにかざした。
どうにかしなければならないという一心で、辺りに満ちていた澱んだ負の空気を両手で強く押し出すように、自分でも信じられないほどのありったけの力を込めて、両手を前方へ激しく叩きつけた。
一瞬、れむのスマホから鮮やかな光が閃光のように激しく光った。
ドスッ……! と、空気がうねるような重い衝撃波がその場に生まれ、目に見えない強烈な壁となって迫り来ていた異形の動きがわずかに鈍る。
◇
「え……今、私たちが何もしてないのに、人形が勝手に吹き飛ばされた……?」
れむは自分のスマホを呆然と見つめ、信じられないものを見る目で息を呑んだ。
「なんか、今……れむの周りの空気がすごく光ったよ……気のせいじゃなかったよね?」
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ! 早く、私の肩につかまって立って!」
「でも、なんだか足音が少し遠ざかったような……?」
(まさか……スマホで、この得体の知れない異形を、力で押し返すことができた……?)
スマホが持っているはずのない不思議な力に戸惑っている暇など、いまは1秒たりともなかった。呆気に取られている暇さえ、れむたちの頭上には残されていない。
れむたちは人形が吹き飛ばされた先、すぐ通路の壁際にあった古い展示物の錆びた鉄柵に視線を向けた。
またもや何かに引き寄せられるように怪しい光を放ったかと思うと――。
ガチャアァン!!
と、恐怖で乱暴に揺れた鉄柵が激しい金属音を響き渡らせる。その鋭い音に驚いた異形は、小さく体をこわばらせて、ぴたりと不気味な動きを止めた。
「なに? いったい何が……これ……?」
れむたちは冷や汗を流しながら、おびえて互いの体を強く寄せ合う。冷え切った空気の中で、自分たちの荒い息の音だけがやけに大きく聞こえた。
その隙に、異形はぐにゃりとその小さな体を不気味に起こし――ジロリと、れむたちの方へと真っ直ぐに視線を向けた。
(っ……見られている……?)
背筋が一気に凍りつくような、耐え難い冷たい恐怖が全身を駆け巡る。だが、それはただ怯えただけの反応ではなかった。
闇の中から這い出たその異形は、引き裂かれたような歪んだ口元をいやらしく吊り上げ、まるでれむたちの必死の足掻きや絶望を面白おかしく嘲笑うかのような、ねっとりと湿った、不気味な笑みを浮かべたのだった。
――お前たちは、もうここからどこにも逃げられない。
そう言わんばかりに、怪異はあえてすぐに追撃してくることなく、闇の奥へとスルスルと、あまりにも余裕綽々な足取りで身を引いて消えていった。暗闇がその姿を再び呑み込んでいく。
◇
「……行ったの……?」
はんながれむの服の裾にしがみつきながら、震える声でかすかにつぶやく。
「うん……っ。たぶん、遠ざかった。でも、ここにじっとしてちゃダメだ。みんなを探さないと」
れむは青ざめながらも、奥歯を噛み締めて強く息を吸い込み、暗く続く前方の通路へと鋭い視線を向けた。
先ほどまで一緒にいたはずのまなせやきょう、めろ、ほむらは、パニックの中でそれぞれ別の方向へと散らばってしまったはずだ。
(あいつは、わざと私たちを遊ばせているんだ。このままでは、まなせたちも危ないかもしれない……!)
あの異形の不気味な笑みが脳裏から離れない。私達を本気でその場で一瞬にして引き裂くのではなく、まるで迷路のなかの小動物を執拗に追い詰めるように、恐怖で追い込みながらバラバラに分断しようとしているのだ。
私たちは他のメンバーが逃げ込んだはずの暗闇の通路へと、痛む足を抱えながらも急いで進みだした。
一人ずつ、バラバラになって暗闇の中で怯えているみんなを、一刻も早く探し出さなければ――!
心臓の鼓動が、静まり返った館内にうるさいほどの音を立てて響く中、私たちはさらなる恐怖の待つ闇の奥へと、意を決して足を踏み入れたのだった。二人の小さな背中が、重く冷たい暗闇の中にゆっくりと溶けていく。




