episode.10「孤高の反撃」
なにがなんだか、わけもわからないまま、ただ無我夢中で走っていた。
足元もおぼつかない暗くて湿ったコンクリートの回廊を、背後から迫る得体の知れない恐怖に背中を押されるように、駆けて、駆けて、ただひたすらに駆け抜けた。
ふと、肺が焼き切れるような激しい息を切らせて足を止め、おそるおそる周囲を見回す。
――誰もいない。
気が付いたら、きょうは完全に一人になっていた。
「みんなどこにいるの……っ?」
誰もいない冷たい暗闇に向かって大きな声で叫んでみたものの、返ってくるのは壁に反射した冷たい反響音だけで、自分の震えた声がむなしく館の奥へ響き渡るばかりだった。
こんな広いお化け屋敷だったっけ……?
心臓が激しくバクバクと暴れるように鳴り響く胸を押さえながら、きょうは不可解で途方角もないことになっていると思いながらあたりを見回した。外から見たときには、あんなにコンパクトに見えたはずの洋館の廃墟アトラクションなのに、足を踏み入れた内部は、まるで終わりがない迷宮のようにどこまでも広がっている。
さっきまで背後で確実に聞こえていたはずの、あの不気味な足音さえも、今はぴたりと聞こえなくなっていた。周囲を包み込むのは、気味が悪いほどの深い静寂だけだった。
そうだ、ここで立ち止まっている場合じゃない! みんなを探さなきゃ。
はんなやれむは無事に逃げられただろうか。みんなもきっと、今頃どこかで私と同じように怯えているに違いない。
だけど、問題はどうやってみんなを探すかだ。暗くてどこがどこだかさっぱり分からないこの迷路のような廊下で、私はいったいどこへ向かえばいいのだろう。右を見ても左を見ても、すべてが同じような不気味な壁と、剥がれかけの古びたポスターに覆われている。
◇
途方に暮れてその場に立ち尽くし、必死に思案していると――。
ザッ、ザッ、ザッ……。
乾いた、しかし何かが地面を這うような重たい足音が、耳をかすめるように遠くから聞こえてきた。
音の方向は、すぐ目の前の暗がりからだ。
「良かった……! みんな、無事だった……っ?」
思わず安堵の息を漏らし、その名前を大声で呼びかけようとした寸前、きょうは自分の喉元で言葉をピタリと止めた。
……待ってよ。
脳裏に冷たい電撃が走る。
この足音、さっきまで私たちの背後をしつこく、まるで獲物をいたぶるように追いかけてきていた、あの忌まわしい足音じゃないか。
きょうは息を呑み、血の気が一気にサーッと引いていくのを感じた。
「嘘でしょ……っ!」
思考が恐怖を追い越すよりも早く、きょうの体は反射的に踵を返し、再び全力で走り出していた。
しかし、相手との距離は離れるどころか、明らかに恐ろしいほどのスピードで猛然と近づいてきている。
逃げても逃げても、足音が背中にぴったりと張り付いて離れない。曲がり角を曲がっても、暗闇の先からあの這いずるような異様な気配が確実に迫ってくる。
ダメだ……このままじゃ、絶対に追いつかれる。逃げ切れない――!
その時、きょうの目の前を、なぜかふわりとピンク色の何かが横切るように飛んでいき、それが迫り来る人形に激しくぶつかった気がした。
その予測不能な出来事に虚を突かれたように、人形の動きがほんの一瞬だけ止まる。
◇
絶望的な現実に直面し、きょうの足がすくみかけたその瞬間、胸の奥で何かがカチリと音を立てて切り替わった。
ただ怯えて、みんなの足を引っ張って、泣き叫ぶだけの私でいるものか。
ここまで来て、恐怖に屈してただ逃げ回るなんて、私のプライドが絶対に許さない。
こうなったらいっそ――私が、ここでこいつを食い止める! みんなのためにも、私があの化け物を足止めしてやるんだ!
覚悟を決めた瞬間、恐怖の代わりに全身に熱い血が一気に駆け巡るのがわかった。
逃げるのをやめ、きょうは身を翻すようにしてその場でピタリと立ち止まった。
「上等じゃない……! 来いよ!」
闘志をみなぎらせながら、何か武器になるものを探して周囲の暗闇に視線を走らせる。またもや淡い光がきょうの視界の隅を掠め、その先へ目を向けた。
暗い床の上、朽ちかけた古い展示物の棚の近くに、ちょうどいい具合に打ち捨てられた頑丈そうな木の棒が転がっているのが見えた。
「よしっ……!」
迷うことなくそれを拾い上げ、きょうはしっかりと両手で力強く握りしめ、まるで試合の構えをとるようにその棒を武器として構えた。
――ガサッ!!
暗闇の向こうから、ぐにゃりと関節を歪ませたあの異形の人形が、狂気的な笑みを浮かべながらきょうに向かって勢いよく飛びかかってきた。
その恐ろしい形相を間近に見て、一瞬だけ恐怖で足がすくみそうになったが、きょうは必死に気合でそれをねじ伏せる。
ふざけるな!
私は中学からずっと剣道をやってきて、その実力を買って貰ってずっとエースを張ってきたんだ。県大会だけじゃない、全国大会の舞台だって経験しているんだぞ……!
ただの人形だか化け物だか知らんが、私の bamboo……いや、今握っているこの棒の切れ味をたっぷりと味わわせてやる!
「なめんなよ――っ!!」
全身の力を右腕と腰に集中させ、渾身の力を込めて木の棒を思い切り振り抜いた。
バコッ!!! と、空気をも切り裂くような乾いた激しい打撃音が、薄暗い廊下に激しく響き渡る。
「グアッ……!?」
人間とは思えない奇妙なうめき声を上げながら、きょうが放った渾身の一撃をまともに食らった人形は、まるで紙屑のように派手に吹き飛んだ。そのまま壁に激突し、ぐにゃりとその体を床に打ち付ける。
◇
「はぁっ、はぁっ……どうだ……っ!」
しかし、これで終わるほどこの化け物は甘くはなかった。
倒れ込んだはずの人形は、骨が折れるようなおぞましい音を立てながら、再びその不気味な四肢を動かし、ゆっくりと、しかし確実に立ち上がってきた。さらに殺気を増した目で、きょうを鋭く睨みつけている。
「しぶとい……っ! なら、もう一発……!」
きょうは怯むことなく一歩踏み込み、再び体勢を低くして、今度は渾身の突きを繰り出そうと構えた。
その瞬間、きょうの背後から、不意にチャプン……と冷たい水の音が聞こえた。
振り返ると、そこにはなぜか、この廃墟の地下水脈にでも繋がっているのか、あるいはアトラクションの演出用の人工池なのか、真っ黒に濁った水がなみなみと湛えられた深い水槽のような場所が広がっており、周囲がうっすらと不思議な光を帯びていた。
「……っ!」
閃いた。
きょうは狙いを定め、迫り来る人形に向かって、先ほどよりもさらに派手に、全体重を乗せた渾身のフルスイングを、その胴体めがけて叩きつけた。
ドゴォォンッ!!
「いっけええぇぇぇ――っ!!」
きょうの気合の入った絶叫とともに放たれた一撃は、人形のバランスを完全に粉砕した。
その衝撃のまま、人形は宙を舞うように大きく弾き飛ばされ、背後にあったその真っ黒な水たまり――水槽の中心へと、まっすぐに落下していった。
バッシャアァァン!! と、激しい水飛沫が上がり、重い水面が激しくざわめく。
「……はぁ、はぁ、はぁ……」
きょうは息を切らせながら、手にした木の棒を杖のようにして支えにし、水面を凝視した。
やった……のか?
水面は激しく波打ったあと、すぐに元のどす黒い静けさへと戻っていった。水面からはもう何も浮かんでこない。あんなに不気味な動きをしていた人形の気配も、ピタリと消え失せていた。
「……よしっ! やった……! あいつ、やっつけた……!」
胸をなでおろし、小さくガッツポーズを作る。
一時はどうなることかと思ったけれど、これまでの経験がこの絶望的な状況で奇跡を起こしたんだ。
一人になってしまった焦りはまだ残っているけれど、今は立ち止まっている暇はない。
「みんなを探そう……!」
きょうは武器として握りしめていた木の棒をしっかりと持ち直し、再び仲間たちの気配を求めて、暗闇の中へと力強く足を向けたのだった。
あの水底に沈んだ人形が、二度と浮いてこないことを祈りながら――。




