episode.11「粉砕の怒り」
「一体なんなのよ、これ……!」
叫ぶことすら惜しいほどの冷たい空気を必死に吸い込みながら、めろはただ無我夢中で暗い回廊を駆け抜けていた。
さっきまで目の前にいたはずのまなせや他のメンバーたちの姿は、パニックの中で交錯した入り組んだ通路のどこかで、いつの間にか見当たらなくなっていた。気がつけば、周りには誰もいない。完全に、たった一人でこの不気味な迷宮に取り残されてしまっていた。
みんなのことも心の底から心配だった。はんなやきょう、れむたちは今頃無事にしているだろうか。みんなもきっと、私と同じように恐怖に震えながら、この暗闇のどこかを彷徨っているに違いない。
だけど、今こうして自分が一人で立ち止まってパニックを起こしていたら、助かるものも助からなくなってしまう。
「とにかく……まずは安全なところに逃げないと……!」
焦る足を必死に動かし、目の前にあった重厚な木の扉を勢いよく押し開けたその瞬間だった。
――パッ、と、周囲の空気が一変した。
そこは、これまでの薄汚れたコンクリートの廃墟とは打って変わって、チカチカと不気味に青白く発光するネオンライトに囲まれた、奇妙な異空間だった。
足を踏み入れた瞬間、自分の姿が、前にも後ろにも、右にも左にも、何十、何百という果てしない数になって無限に映し出される。
――鏡の間、だ。
見渡す限り、壁も柱もすべてが巨大な姿見の鏡で埋め尽くされている。自分がどこを向いているのか、どれが本物の自分自身で、どれが虚像の反射なのかさえ、一目で区別がつかない。迷路のように複雑に入り組んだ鏡の反射が、見る者の平衡感覚を容赦なく狂わせていく。
◇
「はぁっ、はぁっ……ここは……安全、なのかな……?」
追いついてくるはずのあの気味の悪い足音は、この部屋に入った途端、ぴたりと止まっていた。
誰もいない。追ってくる気配もない。
めろは膝に手を突き、ゼーゼーと荒い息を吐き出しながら、その場に崩れ落ちるようにしてようやく一息ついた。冷たい汗が背中を伝い、心臓はまだ早鐘のように激しく鳴り響いている。
「よかった……とりあえず、ここはまだ安全みたい……」
誰もいない、静まり返った鏡の迷宮。無限に続く自分の姿をぼんぼんち眺めながら、めろは張り詰めていた神経を少しだけ緩ませようとした。
だが、その油断こそが致命傷だった。
ふと、正面の壁に掛けられた一枚の大きな姿見に目をやったとき、めろは自分の目を完全に疑った。
映っているはずのないものが、そこにしっかりと映り込んでいたのだ。
「え……?」
めろの背後――何重にも折り重なる鏡の向こう側の空間に、あの異形の姿をした人形が、ねっとりと湿った笑みを浮かべて、音もなく佇んでいた。
鏡の反射などではない。実体がそこにいる。
しかも、その生気のない目はじっと、鏡のこちら側にいるめろを捉えて離さなかった。
「ひっ……!」
悲鳴を上げる間もなかった。めろは反射的に飛びすさり、その場から一目散に駆け出した。
どうして? どうしてここにいるの!? 追いついてこないはずじゃなかったの……!?
恐怖のあまり心臓が凍り付きそうになりながら、鏡の間の複雑な通路を無我夢中で走り抜ける。
◇
行き止まりの壁にぶつかり、慌てて振り返る。
追いついてきた気配はない。後ろから足音も聞こえない。
「はぁ、はぁっ……ま、まさか、まいた……?」
わずかな期待を込めて、すぐ背後にあった別の大きな姿見の鏡を恐る恐るのぞき込んだその瞬間だった。
その鏡の表面から、やつがぬるりと飛び出してきた。
「うそっ……!?」
鏡の中から、ぐにゃりと不自然に四肢を曲げたあの人形が、まるで水面から飛び出すかのように、身の毛もよだつ滑らかな動きで這い出てきたのだ。
実体が鏡の「ガラスをすり抜けて」、空間を移動している……!?
そんな物理法則を完全に無視した異常な現象に、めろの脳みそは一瞬でショートしそうになった。
「なんなのよ、それ……! なんなの、この化け物はっ……!!」
その時、通路の奥の方にうっすらと優しいピンク色の光を見つけた気がして、めろは再び走り出した。
しかし、逃げても逃げても無駄だった。
右の鏡から飛び出したかと思えば、次の瞬間には、めろの斜め前にある左の鏡の奥から、不気味な四肢をうねらせた人形がまるで空間を飛ぶように飛び移ってくる。鏡から鏡へと、まるでワープするかのような超常的な移動を繰り返し、執拗にめろを追い詰めていくのだ。
「待って、やめて、来ないで――っ!!」
どこに逃げても、目の前の鏡の向こうからあの顔が覗き込んでくる。逃げ場など最初から存在しないかのように、じわじわと、しかし確実に私の逃げ道を塞いでいく。
恐怖で足がすくみ、何度も転びそうになりながら、めろはひたすら鏡の間を乱雑に駆けずり回った。
◇
しかし――。
極限まで恐怖に怯えていためろの心の中で、何かが「プツリ」と音を立てて完全に切れたのは、その時だった。
「…………もう、いい加減にしろっての!!!」
走る足を急停止させ、めろは怒りと絶望が入り混じった声を、だだっ広い鏡の間に激しく響き渡らせた。
もう限界だった。ただ怯えて、逃げ回って、まるでおもちゃのように追いかけ回されるのは、これ以上まっぴらごめんだ。
「なんなんだってんだよ……! 鏡から出てくるなら、そんなもの、全部……全部壊してやるよっ!!」
めろの中にあった恐怖は、いつの間にか怒涛のような怒りへと変貌していた。
視線の先、パステルピンクの照明の下にあった展示用の重い鉄製の飾り棒――通路の端に転がっていた頑丈そうな鉄のパイプを力任せに掴み取ると、鬼気迫る表情で後ろを振り返った。
バリィィンッ!!
「これでもくらえっ!」
最初に視界に入った巨大な鏡に向かって、めろはありったけの感情を込めてパイプを思い切り叩きつけた。
美しい装飾が施された姿見のガラスが、派手な音を立てて蜘蛛の巣状にひび割れ、次の瞬間には木端微塵に粉砕されて床に飛び散る。
止まらない。めろの勢いはもう誰にも止められなかった。
「そこもか! こっちもだ!! ざけんな、出てこれるもんなら出てきやがれっ!!」
ガシャーーーン!! パリパリパリッ!!
次から次へと、めろは目の前にある鏡を片っ端から殴りつけ、蹴り飛ばし、パイプで無残に叩き割っていった。
鏡の間中に、ガラスが砕け散る甲高い破壊音がけたたましく響き渡る。何重にも反射していたはずの私の姿は、鏡が壊れるたびに消え失せ、代わりに無数のひび割れた破片だけが、天井のネオンライトを乱反射させてギラギラと冷たく輝いていた。
◇
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」
すべての鏡を割り終え、私はパイプを杖のように突いて、その場で荒い息を激しく切らせた。
肺が焼き切れるように熱い。両腕はガラスの破片が跳ね返ったのか、ヒリヒリと痛む。
周囲を見渡せば、さっきまで無限の空間を映し出していたはずの鏡の間は見る影もなく、ただのコンクリートの殺風景な壁と、足元を埋め尽くす無数のガラスの破片だけが広がっていた。
「はぁ、はぁ……ぜー、ぜー……」
めろは両膝に手を突き、肩を大きく上下させながら必死に酸素を肺に送り込む。
しばらくの間、館内には私の荒い息遣いと、ガラスを踏みしめるわずかな音以外、何も聞こえなくなっていた。
「ふう……っ……」
胸のつかえが少しだけ下りたような気がして、めろは大きく深呼吸をした。
すべての鏡を完全に破壊し尽くした。これでもう、あいつが鏡から飛び出してくるなんて芸当は絶対に不可能なはずだ。
「ふっ……これであんな卑怯な真似はもうできないでしょ。ざまーみろ……っ!」
誰もいないガレキの山に向かって悪態をつき、めろはようやく冷静さを取り戻した。
アドレナリンが引き潮のように引いていき、代わりに現実の状況が頭の中にドッと押し寄せてくる。
そうだ、私は一人でこんなところで油を売っている場合じゃないんだ。
「みんな……っ! みんなはどこにいるの……!?」
仲間たちのことが再び脳裏をよぎる。はんなも、きょうも、れむも、ほむらも、まなせも、みんなこの広くて恐ろしい廃墟のどこかで恐怖に怯えているはずだ。
私は壊れた鏡の破片が散らばる足元に気をつけながら、他のメンバーたちとの合流を目指して、再び力強く歩き出し、暗い通路へと飛び出していくのだった。




