episode.12「バックステージの迷宮」
はぁっ、はぁっ……と、喉の奥が焼けるような激しい息を切らせながら、ほむらはようやくその場に足をピタリと立ち止まらせた。
心臓が胸の中で暴れる馬車馬のようにドクドクと激しく脈打ち、冷や汗が全身を嫌な感触で伝ってシャツの背中をぐっしょりと濡らしている。
恐怖に駆られるまま無我夢中で走り続け、ふと気が付いた時には、いつの間にかみんなの姿はどこにもなくなっていた。ほむらは完全にたった一人きりで、この不気味で底知れない廃墟の迷宮に取り残されていたのだ。
ほむらたちはこの旅行に出発する前に、完璧なスケジュールを立ててすべての日程をその通りに行動するはずだった。交通機関の細かな乗り継ぎ、遊園地の効率的なアトラクションの回り方、そして帰りの電車の発車時間に至るまで、すべてはほむらの手帳に綿密に書き記していたというのに――。
いざこんな想定外の非常事態になってみると、ほむらがこれまで積み上げてきた完璧な計画なんてものは、この現実離れした悪夢の前では、紙くずよりも何の役にも立たなかった。
◇
「はぁ、はぁ……っ……」
本当はその場に崩れ落ちるようにうずくまって、声を上げて泣き出したいほどの恐怖に満ちていた。けれど、ここでほむらがパニックを起こして完全に立ち止まっているわけにはいかない。ほむらのスケジュール帳には、みんなと今日一日を無事にトラブルなく終えて、笑顔で愛しい波須町へ帰る予定がまだ書き残されているのだから。
背後からいつ追ってくるかもしれないあの不気味な化け物の気配を猛烈に恐れ、ほむらはただ夢中で足を動かし続けていた。
しかし、もう肉体的な体力も精神的な気力も限界に達していた。肺は悲鳴を上げ続け、極限まで張り詰めていた緊張の糸が、限界を超えてプツリと音を立てて切れかけている。
「もう……これ以上は限界だ……っ」
膝がガクガクと情けなく笑い、自分の体重すらまともに支えることすらおぼつかない。
暗闇の中、うっすらと優しいピンク色の光がかすかに漏れる冷たい廊下の片隅で、ほむらは壁に背中を預けるようにして、ずるずるとその場にしゃがみ込んだ。
◇
懸命に呼吸を整えようと必死になりながら、脳裏に次々と浮かんでくるのは、やはり仲間たちの愛おしい顔だった。
みんないま頃どうしているだろうか。さっきまで必死に私の立てたスケジュール通りについてきてくれていたみんなの顔が走馬灯のように脳裏を駆け巡る。
「はんな……あの子、あんなに怖がりだし、足も痛めてたのに……今頃一人で泣いていないかな……」
きょうも、れむも、めろも、まなせも、みんな無事でいてくれるだろうか。ふと、胸の奥が締め付けられるような激しい心配と、言い知れぬ罪悪感がどっと込み上げてくる。
もしも、あのとき。
アトラクションの入り口で、私が「このお化け屋敷は今日のスケジュールに入っていないから、今回はやめておこう」と、もっと強く周囲に主張していれば――。
いや、そもそもこの遊園地をみんなに提案した時点で、もっと慎重に下調べをしておくべきだったのだ。私がみんなをこの危険な迷宮の中にバラバラに散らばらせてしまったすべての張本人なのだという思いが、重く冷たい鉛のように心を圧迫する。
「ううん……今さらそんな後悔をしたって、もうしょうがない……!」
ぶんぶんと頭を激しく振って、自分を必死に叱りつける。
過去の時点に戻ることはできないし、ここで私一人だけが安全な場所へ都合よく逃げ切れたとしても、そんなものにいったい何の価値があるというのだろう。みんなは今も、この恐怖に満ちた闇の中で激しく怯えている。私だけが生き残るなんてことは絶対に許されない。
みんなを探さなくてはならない。絶対に、全員で一緒にこの館から生きて出なきゃいけないんだ。
◇
しかし、ただやみくもに焦って暗い廊下を走り回るだけでは駄目だということも、少しだけ冷静さを取り戻した頭では十分に分かっていた。
この館は、私たちが事前に知っていた普通のアトラクションの構造を完全に逸脱している。ただの複雑な迷路ではなく、空間そのものがまるで歪んでいるかのように、何度同じような場所を回っているのかすら分からない。
ほむらは暗闇の中で必死に目を凝らし、フル回転で思考を巡らせた。
一体、何がきっかけで私たちはこんな異常な事態に巻き込まれてしまったのだろう?
あの受付にいた係の男がチケットに掛けた、あの重い「クローズ」の札だったか。それとも、入り口にあった不気味な注意書きの看板だったか。
いくら頭をひねってみても、今のほむらには論理的な答えなど一つも出やしない。ただ、こうしている間にも、仲間たちの誰かがあの化け物に襲われているかもしれないという最悪の想像だけが、容赦なく脳裏を駆け巡る。
「くそっ……! これじゃあ、私の悪い癖がまた出てる……」
思い悩んで動きが鈍る。計画通りにいかないとどう動いていいか途方に暮れて分からなくなる、私の悪い癖がまたここで顔を出していた。
分かっている。じっとしている時間なんて一秒たりとも残されていないはずなのに、極限の疲労と恐怖のせいで、足がまるで鉛のように一歩も前に進まない。
「……でも、少しだけ……本当に、ほんの少しだけ息を整えさせて……」
重いまぶたを閉じかけながら、ほむらは全体重を預けるように、すぐ後ろにあった古びた木製の壁に背中をもたれかけさせた。
コンクリートではなく、どこかチープで、剥がれかけた壁紙が何重にも貼られただけの薄い壁。ほっと一息つき、全身の緊張の糸をふっと緩めて、その冷たい壁に凭れかかったその瞬間だった。
ガタンッ――!!
「うわっ……!?」
突然、背中を預けていたはずの壁が、何の予兆もなく水平にくるっと大きく回転した。
突然の不意を突かれたほむらは、バランスを完全に崩し、その重心のまま向こう側へと転がり落ちるように放り出された。
「いたたたたた……っ! なに、今の不意打ちは……!?」
慌てて地面に両手をついて起き上がり、信じられないものを見るような驚きの目で自分の背後を振り返る。
そこにあったのは、先ほどまでほむらがもたれかかっていたはずの薄汚れた壁だった。しかし、よく見るとその壁の中央にはうっすらと隙間があり、人が一人ようやくすり抜けられるほどの隠し扉のように、パカリと内側へ向かって開閉する構造になっていたのだ。
◇
「壁が……自分で回転した……?」
あまりの混乱に、ほむらはその場で呆然と立ち尽くした。
一体どういうことだろう。アトラクションの仕掛けにしてはあまりにも唐突すぎるし、そもそも私たちは正規のルートから外れた奥深くのエリアにいるはずだ。
恐る恐る、その回転した壁の向こう側をのぞき込んでみる。
そこには、先ほどまでの不気味で湿ったコンクリートの回廊とは打って変わって、無数の配管や天井のむき出しの骨組み、そして何より――遊園地のスタッフが使うような、いかにも「裏方」然とした殺風景で狭い通路が、ずっと奥まで続いていた。
壁にかけられた、色褪せた「関係者以外立ち入り禁止」の古いプラスチックのプレートが、薄暗い光に照らされてぶら下がっている。
「ここって……もしかして……」
ほむらの胸の中で、小さな希望の光がパッと強く灯ったような気がした。
ここは、このお化け屋敷の「お化け役の従業員用通路」なんだ……!
表の複雑怪奇で迷宮のようなアトラクションのルートに対し、この従業員通路を使えば、館全体の裏側を一気にショートカットして移動できるはずだ。もしこの通路が館内のあちこちに繋がっているなら、迷わずに効率よく移動することができる。
みんなを探し出すための、絶好の手がかり――いや、文字通り「逆転の抜け道」だ。
「これなら……! これなら、みんなのところにたどり着けるかもしれない……!」
さっきまでの絶望と極限の疲労が、不思議とどこかへ吹き飛んでいくのを感じた。
足の痛みを忘れ、ほむらはぐっと両手の拳を握りしめる。もはや迷っている時間はない。ほむらは目の前に広がる薄暗い従業員通路へと一歩を踏み出し、裏側の迷宮へと、強い決意を胸に足を踏み入れていくのだった。




