episode.08「崩れかけた逃走」
「きゃっ……!」
暗闇の中、息を詰まらせながら必死に逃げる足並みがわずかに乱れたその瞬間、はんなは濡れたコンクリートの冷たい床に、大きくバランスを崩して派手に足を滑らせて転んでしまった。
勢いよく放り出された体が硬い床に打ち付けられ、全身に鈍い衝撃が走る。
「いてて……っ!」
反射的に両手をついたが、剥き出しのコンクリートで手のひらをすりむいたのか、ヒリヒリとした生々しい痛みが広がる。しかし、そんな痛みを気にかける余裕などどこにもなかった。
恐る恐る、震える首を後ろへと振り向く。
闇の中、スマートフォンが放つ頼りない光の先で、あの「人形」のような異形が、信じられないほどの猛烈な速さでこちらに向かって這うように走ってくるのが見えた。関節が人間のものとは思えない不自然な逆向きに曲がり、 these這いずる四肢から発せられる湿った摩擦音が、耳元で直接響くような不気味な錯覚に陥る。
――絶対にあんなの、ただのアミューズメントの演出なんかじゃない……!
恐怖で心臓が破裂しそうになる。
頭の中が真っ白になりながら、半狂乱の状態で思考が激しく駆け巡る。
なんなの!? 一体どうして、こんな遊園地でこんな目に遭わなきゃいけないの……!
「こんな時に、なんで私、よりによってこんな厚底のスニーカーなんて履いてきちゃうんだよ……っ!」
歩きやすさよりも、トレンドや見た目の可愛さを優先して選んだ自分の足元を、はんなは心の底から激しく呪った。周囲の友達より少しでも背を高く見せたくて履いてきたこの重たい厚底のソールが、いまや自分の足首を地面へと縛り付ける重い鉛の枷のように感じられる。
自分自身の小さな身長が恨めしかった。逃げるための歩幅さえも、みんなよりずっと狭い。
◇
背後から迫り来る異形の足音が、もうすぐ背中に届くほどの距離まで迫っている。
来るな、来ないで――!
パニックに陥りながらも、恐怖で涙をぐしゃぐしゃに滲ませたはんなは、すがりつくようにその場に幾度も這いつくばりながら、暗闇の中であたりを見回した。すると、少し奥の方に、ピンク色の何かがぼんやりと見えた気がした。はんなはそこに何か武器になるものがあると錯覚したのか、その辺りに転がっていたものを手当たり次第に掴み取っては、後ろへと投げつけた。
「こないでっ、こないでよっ!」
拾い上げたのは、古びたコンクリートの剥き出しの破片や、朽ちかけたちょっとした木材の切れ端だった。
投げたものは次々と闇の中に虚しく消えていったが、そのなかの偶然の一つ――硬い石の塊が、不気味に迫り来る人形の頭部を正確に捉えた。
ゴンッ! と、重く濁った鈍い音が回廊に響き渡る。
「あ……っ?」
一瞬、人形の動きがピタリと止まった。
頭部を直撃されたことで、その怪異のバランスが激しく崩れ、異様な姿勢のまま前のめりに崩れ落ちるように動きが鈍る。
今だ――!
恐怖で震え上がる足を無理やり力づくで動かし、はんなは土壇場で這いつくばるようにして勢いよく立ち上がった。
「はぁっ、はぁっ……!」
みんなに追いつかなければならない。この真っ暗な闇の中で一人きりで取り残されたら、今度こそ二度と生きて外の世界へ出られない。恐怖に押しつぶされそうになりながらも、はんなは必死の形相で前へと走り出した。
◇
しかし、先ほどの転倒で負ったダメージと、厚底スニーカーの想像以上の重さが容赦なく疲弊した足を襲う。
走るたびに、右足首のあたりに鋭く激しい痛みが走った。足が痛い。思うように前に進まない。
呪われたように足がもつれ、「はぁ、はぁ、みんな……どこにいるの……っ!?」と声にならない声が喉から漏れる。暗闇の中で自分の呼吸音だけが大きく反響し、孤独感が容赦なく心を蝕んでいく。足首の激痛はまるで冷たい針で刺されているかのようで、一歩踏み出すたびに涙が滲んだ。
周囲を見渡しても、先ほどまで目の前にいたはずの仲間たちの背中も、携帯の頼りない光さえも一切見当たらない。私たちは完全に分断されてしまったらしい。冷たい闇と湿った空気が四方から押し寄せ、私をまるで標的のように囲い込んでいる。
これ以上無理して走ったら、足が完全に折れてしまうかもしれない。そう直感的に判断したはんなは、暗がりの中で必死に身を隠せる場所を探してあたりを見回す。
ピンクのクマ……? なにあれ、こんなところに……?
そう目を凝らすと、少し開けた通路の脇に、薄気味悪くそびえ立つ本物そっくりのハリボテの「お墓のオブジェ」があった。墓石の冷たい質感が闇の中にぼんやりと浮かび上がっている。はんなはすがるような思いで、その巨大な影へと滑り込むように身を隠した。
背中を冷たく湿った壁にぴったりとつけ、両手で自分の口を必死に押さえる。
呼吸の音すら外に漏れないように、肺に残っていた空気を限界まで絞り出す。胸の鼓動がうるさくて、異形に聞かれてしまうのではないかと本気で恐れた。
――おねがい! 私を見つけないで! どうかそのまま通り過ぎて……っ!
◇
暗闇の中、足音が近づいてくる。
ザッ、ザッ、チャプ……と、何か得体の知れない重いものを引きずるような、ぞっとするほど不気味な足音。
身を隠したオブジェのすぐ目の前を、あの異形がまさに通り過ぎようとしていた。はんなは恐怖のあまり目をぎゅっと固く閉じ、来る日も来る日も終わらない悪夢の中に閉じ込められているような感覚に耐えながら、ただ小さく震えていた。異形の放つ冷気と、鉄が錆びたような悪臭が鼻腔を突き刺す。
その時だった。
ガタンッ――!!
すぐ隣に立てられていた木製の古い卒塔婆のオブジェが、はんなの恐怖で大きく震えていた足に不意に当たってしまったのか、あるいはその場の澱んだ不気味な空気のせいなのか、派手で不穏な音を立てて真横に倒れ込んでしまった。
「あ……っ!」
自分の口から漏れ出たのか、心の中で叫んだのかも分からない。
血の気が一気に頭から引いていくのを感じた。心臓が一時的に止まったかのような、底知れぬ寒気が背筋を駆け抜ける。
音を聞きつけたのか、まさに通り過ぎようとしていた足音が、ピタリと完全に止まった。
静寂が、凍りついたようにその場を支配する。わずかな息の音さえも許されないような、圧倒的なプレッシャー。
そして、ゆっくりと――本当に、這い回る虫のように、その頭部がグニャリとこちらへとねじ曲げられた。
「なんで……なんでこんな時に限って……っ!」
もう、完全に隠れきれない。
絶望が冷たい津波のように喉元までせり上がってきたその瞬間、はんなは激しく痛む足を引きずりながら、再びその場から飛び出すように走り出した。
終わりのない絶望的な暗闇の回廊へと、涙をボロボロとこぼしながら、ただひたすらに命がけで足を動かし続けるのだった。背後から迫る重苦しい気配を振り払うように、はんなは一人、闇の中へと吸い込まれていった。




