第五十八話 怒りの王子
クリス殿下は。
しばらく私を抱きしめたまま動かなかった。
「殿下……。」
「……。」
「大丈夫です。」
そう言っても。
腕は緩まない。
「大丈夫ではありません。」
低い声だった。
「目の前で、あなたを狙われた。」
「でも、私は無事です。」
「結果的に、です。」
クリス殿下が私を見る。
その瞳には。
はっきりと怒りが浮かんでいた。
「もし、私が気づくのが遅れていたら。」
「……。」
「もし、あのナイフがあなたに当たっていたら。」
言葉が途切れる。
私はそっと彼の手に触れた。
「殿下。」
「……はい。」
「私はここにいます。」
「……。」
「だから、自分を責めないでください。」
クリス殿下は私の手を握った。
「分かっています。」
けれど。
怒りは消えていない。
「ただ。」
クリス殿下が静かに言う。
「もう、これ以上は待ちません。」
「え?」
「犯人を捕まえます。」
その声は冷たかった。
「必ず。」
◇ ◇ ◇
その日の夜。
王宮では緊急の会議が開かれた。
国王陛下。
クリス殿下。
レオン殿下。
そして、数名の重臣と騎士団長。
机の上には。
花屋の前で見つかったナイフが置かれている。
「これが……。」
陛下がナイフを見る。
「はい。」
騎士団長が答える。
「フラン嬢を狙ったものと思われます。」
「犯人は?」
「まだ捕まっておりません。」
陛下の表情が険しくなる。
「王子の婚約者を狙った暗殺未遂だ。」
部屋の空気が重くなる。
「絶対に放置するな。」
「承知しております。」
クリス殿下が口を開く。
「父上。」
「何だ?」
「私に捜査を任せてください。」
「クリス。」
レオン殿下が振り返る。
「お前が直接動くのは危険だ。」
「分かっています。」
「なら――。」
「だからこそです。」
クリス殿下の声が響く。
「私の婚約者が狙われた。」
拳を握る。
「このまま黙っているつもりはありません。」
陛下が黙って息子を見る。
「……分かった。」
「父上。」
「ただし、騎士団と共に動け。」
「はい。」
「単独行動は許さん。」
「承知しました。」
◇ ◇ ◇
その頃。
私は王宮の客室にいた。
窓の外を眺める。
もう夜遅い。
クリス殿下はまだ戻ってこない。
「……大丈夫かな。」
コンコン。
「はい。」
扉が開く。
「フラン。」
「殿下。」
ようやく戻ってきた。
「お帰りなさい。」
「ただいま戻りました。」
クリス殿下は私の前まで来る。
「今日は、怖い思いをさせてしまいました。」
「殿下のせいじゃありません。」
「……。」
「むしろ、助けてくれたじゃないですか。」
「それでも。」
クリス殿下が私を見る。
「もう二度と、あなたをあんな目に遭わせたくありません。」
「はい。」
私は微笑んだ。
「私も、殿下のそばにいたいです。」
「……。」
クリス殿下が少し驚く。
「だから。」
私は手を差し出した。
「一人で怒らないでください。」
「……。」
「私も一緒にいます。」
クリス殿下は。
その手を取った。
「分かりました。」
そして。
私の手の甲に、そっと唇を落とした。
「約束します。」
初めてのキスだった。
ほんの一瞬。
けれど。
それだけで胸がいっぱいになった。
「……殿下。」
「はい。」
「今の……。」
「嫌でしたか?」
「……嫌じゃないです。」
クリス殿下が少しだけ笑った。
「良かった。」
その夜。
私は初めて。
この人の婚約者になったことを。
本当の意味で実感した。




