第6話
翌日の朝、湊は家を出る時間をまた五分ずらした。
玄関のドアノブを握ったまま、
外の音をひとつずつ拾ってからでないと開けられない。
遠くの車。
上の階の足音。
新聞受けの金属が鳴る音。
問題はない。
そう判断してから、ようやく外へ出る。
駅までは歩いた。
電車に乗るより遅くなるが、
人の顔を正面から見る回数が減る。
交差点で信号待ちをしていると、
隣に立った女子がリュックの肩紐を握り直した。
爪が短い。
指先が少し白くなるまで力が入っている。
視線を上げる。
同じ学校の制服。
見覚えのない顔。
青に変わって、人の流れが動く。
女子は半歩遅れて歩き出し、
すぐに足を止めてスマホを落としかけた。
「あ」
小さな声。
端末は路面に当たる直前で、
湊が反射で手を出して受け止めた。
「……どうぞ」
女子は一瞬だけ目を見開き、
礼を言う前に、湊の顔を確かめるように見た。
「ありがとう。
えっと、同じ学校?」
湊はうなずく。
会話を続ける気配が喉まで来て、そこで止まる。
「神代、湊」
名乗ってしまってから、
余計だったと思う。
女子は少しだけ間を置いて、口元を引き締めた。
「……春名。二年」
学年は同じだった。
それだけ確認すると、二人の間に短い沈黙が落ちる。
春名はスマホを胸元で持ち直し、
道路の先を見たまま低く言った。
「昨日、駅にいた?」
湊の肩が固まる。
呼吸を入れるのが遅れる。
「……いた」
「やっぱり」
春名はそれ以上すぐには続けなかった。
歩き出してから、足元を見たまま声を落とす。
「わたし、見たんだよね。
救急車の前で、警察と話してるの」
責める口調ではない。
でも、安心もない。
観察している音だった。
「あのとき、神代くん、
ずっと同じとこ見てた」
湊は返せない。
事実だからでも、違うからでもなく、
返す言葉の形が見つからない。
校門が見えてくる。
春名はそこで足を止め、
湊のほうをまっすぐ見た。
「変なこと聞くけど」
風が弱く吹く。
旗の布が一度だけ鳴る。
「あれ、偶然だった?」
湊の指先が、制服の袖口をつまむ。
離す。
またつまむ。
偶然だと言えば終わる。
終わるはずだ。
終わったあとが、想像できない。
「……分からない」
春名は目を細める。
納得ではなく、保留の顔だった。
「そっか」
それだけ言って、先に校門をくぐる。
振り返らない。
湊は少し遅れて歩き出した。
胸の奥の固さは消えていないのに、
さっきまでより呼吸が一段深く入る。
教室に向かう階段で、
前を行く生徒の首筋が視界に入る。
すぐ目をそらす。
二段上がって、また見てしまう。
やめたい動きが、体だけで繰り返される。
昼過ぎ、保健室の前を通ったとき、
カーテンの隙間から白いシーツが見えた。
それだけで喉が締まる。
足は止まらない。
止めると見てしまう気がした。
放課後、昇降口で靴紐を結んでいると、
真横に春名のローファーが止まった。
「神代くん」
湊は顔を上げる。
春名は腕を組み、視線だけを落としていた。
「まだ、よく分かんない。
でも、そのままにしてると危ない感じする」
優しさとも違う。
突き放しとも違う。
線を引いたまま、そこに立つ言い方だった。
湊が返事を探している間に、
春名は小さく息を吐いて言葉を足す。
「信じるとかじゃなくて。
見てると、そう思う」
危ない。
その言葉だけが、遅れて重く落ちる。
「……何を」
問いかけると、春名は首を振った。
「それ、こっちが聞きたい」
会話はそこで切れた。
春名は人の流れに混じって外へ出る。
湊は靴紐を結び直したまま、
指先に力を入れすぎていることに気づかなかった。
校舎を出ると、空は低く曇っていた。
遠くで雷のような音が鳴る。
雨はまだ落ちていない。
湊はスマホを取り出し、
何も通知がない画面を三秒見て、消す。
ポケットにしまう。
また取り出す。
同じ動きを、もう一度。
画面の黒に、自分の顔が薄く映る。
その後ろ、校門の外灯の下に、
知らない男が立っていた。
目が合った気がして、湊は瞬きをする。
もう一度見ると、そこには誰もいなかった。




