第4話
週明けの朝、教室の空気は乾いていた。
窓際の席で女子生徒が咳をして、前列の男子が振り向き、また戻る。
いつもの雑音。
いつものはずの音。
湊は教科書を開いたまま、文字を追えていなかった。
ノートの端には、意味のない短い線が増えていく。
気づくと、同じ傾きで五本続いていた。
昼休み、購買の列で肩が触れた。
小柄な男子生徒が「すみません」と早口で言い、
パンを二つ抱えて廊下を駆けていく。
見たことのある顔だった。
同じ学年。
同じクラスではない。
名前は、たしか。
湊が振り返った瞬間、
視界の端で白い蛍光灯が不自然に滲んだ。
天井が近い。
息が浅い。
喉が熱く、うまく飲み込めない。
床にこぼれた水が、靴底で冷たく滑る。
誰かが走ってくる足音。
金属のワゴンが壁に当たる音。
耳の奥で、何かが高く鳴り続ける。
胸の真ん中が締まって、呼吸を入れようとするたび痛みが増える。
指先が痺れて、力が抜ける。
視界の先に、扉。
その手前に、制服姿の誰か。
顔は逆光で潰れているのに、輪郭だけがはっきりしている。
神代。
はっきり聞こえた。
湊は現実の廊下で足を止め、壁に手をついた。
手のひらの温度だけが遅れて分かる。
「大丈夫?」
近くにいた女子が怪訝そうに覗き込む。
湊は首を振り、何でもないと言おうとして、声が空回りした。
さっき走っていった男子生徒の背中は、
もう階段の向こうに消えていた。
午後の授業中、
湊は何度も席を立ちそうになって、やめた。
行ってどうする。
行って、何を言う。
終礼後、昇降口でその男子生徒を見つけた。
上履きを脱ぎながら、友人と何か笑っている。
顔色は悪くない。
普通に見える。
湊は二歩近づいて、止まった。
喉が乾く。
手の指が勝手に曲がる。
「あの」
男子生徒が振り向く。
目が合う。
「……今日、無理しないほうがいい」
男子生徒は首をかしげた。
「は?」
隣の友人が笑いをこらえるみたいに口元を押さえる。
湊は続きの言葉を探すが、
理由をつけた瞬間に全部嘘になる気がした。
「胸、痛くなったら、すぐ」
言い切る前に、男子生徒は半歩引いた。
警戒が顔に出る。
「なんで知ってんの」
湊は息を飲む。
その反応だけで、背中に冷たい汗が走った。
男子生徒は友人の腕を引き、湊を避けるように玄関を出ていった。
取り残された廊下に、
外の部活の笛が細く聞こえる。
湊は壁にもたれたまま、しばらく動けなかった。
夜、雨が降り出した。
机の上でスマホの画面を伏せ、
また表に戻し、時刻を見る。
二十一時十六分。
二十一時三十分。
二十一時四十二分。
通知音。
学校の連絡網アプリだった。
「二年生徒一名が搬送されました」
短い文の下に、詳細は追って連絡とある。
湊の指先が固まる。
画面をスクロールしようとして、動かない。
一度深く吸ってから、親指を押し下げる。
追加通知。
「搬送先で死亡が確認されました」
名前が表示される。
昇降口で話した男子生徒だった。
湊は立ち上がりかけて、膝が机に当たる。
痛みで少しだけ現実に戻る。
呼吸が速い。
胸が詰まる。
見えた。
呼ばれた。
間に合わなかった。
スマホが手から滑り、床に落ちる。
画面の端が割れ、光の線が一本入る。
そのひびの奥に、
さっきの視界の扉が重なって見えた。




