第3話
事情聴取は駅前の交番で十五分ほどだった。
短い質問が続き、湊は同じ答えを何度も返した。
見ていない。知らない。偶然通っただけ。
机の上のボールペンが、
話している間ずっと微妙に揺れていた。
誰かが別室で歩く振動らしい。
その小さな揺れに、湊の視線は何度も引っ張られる。
帰るころには空が暗くなり、
駅前のアスファルトに雨のにおいが落ちていた。
霧雨は弱いのに、首筋だけやけに冷たい。
翌朝になっても、交番の机で揺れていたボールペンの細い動きだけが目の奥に残っていた。
次の日から、湊は同じ改札を避けた。
一駅手前で降りて歩く。
遠回りだが、人の顔を見る回数が減る。
歩道橋の階段を上るとき、
前を行く男性が手すりを強く握っていた。
黒いリュック、擦れたスニーカー、左足のわずかな引きずり。
一段飛ばしで上るたび、呼吸が浅く鳴る。
湊は視線を落とし、追い越さないまま後ろについた。
その背中を見た瞬間、耳の奥が熱くなる。
暗い室内。
天井が低い。
蛍光灯がちらつく。
呼吸は速いのに、酸素が足りない。
喉の奥で金属みたいな血の味が広がる。
足元でガラスが割れ、靴底が滑る。
誰かがドアを叩いている。
外からではない。
内側から、焦って叩く音。
視界の端で火が走り、すぐに黒い煙が上がる。
肩が重い。
右腕が上がらない。
煙の向こうに、人影。
輪郭だけなのに、制服の白いシャツが見える。
神代。
呼ばれて、湊は階段の途中で膝をついた。
手すりに額が当たり、冷たさで現実へ戻る。
前を歩いていた男性が振り返った。
「大丈夫ですか」
息が整わない。
湊は手を振って「平気です」と言い、
立ち上がるまでに三秒かかった。
男性はまだこちらを見ている。
その目線に急かされるみたいに、湊は口を開いた。
「今日、早く帰ったほうがいいです」
男性の眉が寄る。
「は?」
「家……火、気をつけて」
言葉が足りない。
足りないままなのに、もう戻せない。
男性は不快そうに顔をしかめ、短く笑った。
「宗教か何か?」
湊は首を振る。
違うと言いたいのに、次の言葉が出ない。
男性はそれ以上聞かず、階段を下りて行った。
その背中が見えなくなってから、
湊は手すりを握ったまましばらく動けなかった。
掌に汗が溜まり、金属の冷たさだけが残る。
家に戻ってからも、その冷たさだけが手のひらから抜けなかった。
夜、部屋で課題のプリントを開いても、
文字が頭に入らない。
同じ行を三回読んで、三回とも最初に戻る。
スマホの時刻表示だけが進む。
二十一時。
二十一時二十三分。
二十一時四十。
通知音。
地域ニュースの速報だった。
市内集合住宅で火災。
男性一名が搬送後、死亡確認。
湊の喉が閉じる。
記事の写真には、見覚えのある外階段が写っていた。
手すりの塗装が剥げた位置まで同じだった。
湊は通報時刻を見て、
次に死亡確認時刻を見た。
視線が行ったり来たりする。
助けようとした。
そう言い切る前に、胸の内側で別の感覚が先に立つ。
重い。
鈍い。
言葉にすると違う気がする。
スマホを伏せる。
十秒もしないうちに、また裏返す。
画面を消す。
すぐ点ける。
閉じたままにしておくほうが、もっと嫌だった。
同じ動きを、もう一度。
もう一度。
通知欄の下に、関連記事の小さな画像が並んでいた。
黒い窓。
焦げた壁。
規制線。
最後の一枚の端に、
人影のような黒い縦線が映っている。
ただの電柱かもしれない。
ノイズかもしれない。
湊には、
それが自分の立ち姿に見えた。
息を吸う。
浅い。
もう一度吸う。
入った感じがしない。
ベッドの端に座ったまま、
湊は画面を閉じなかった。




